2007年06月18日
リラクゼーション(4)−何もしないこと
リラクゼーションの本質は生命としてニュートラルな状態になることである。
しかし、前述したように、私たちは他人が勝手に規定した意味・情報にがんじがらめになって生きている。社会的に規定された時間の流れ、行動に駆り立てられ、ほとんどの人が同じような流れの中で生きている。そして、その流れに合わせることが、何よりも大事なことであると思いこみ、それに合わせられないと不安や焦りを感じるわけだ。そして、それが大きなストレスと感じる。
自分が思うようにならないこともストレスだが、自分の周りの人間が思うようにしようとするのに巻き込まれ不本意なことをせざるを得ないのはもっとストレスだ。ストレスにがんじがらめになっている時は、そのしがらみから抜け出せればストレスから解放されると思うのだが、そこから抜け出したとしても次なるストレスが待っているだけだ。
そうは言っても、人間の性。思考力、想像力が発達したことの代償として、何かをコントロールしていないと不安でしょうがない。内的安定性が保てないわけだ。今の文化は人をがんじがらめにしていると冒頭で述べたが、何も無駄なことをしてきたわけではなく、安定を求めて発展させてきた結果が、行き過ぎてしまって、あるいは偏りすぎてしまって、バランスがとれなくなったということだ。過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったものである。
人が一番安定するのは、自分にとってちょうどよい内容、ちょうどよいペースで時間が過ぎていき、「何となく一日が終わり、眠りにつき、起きたときは疲れがとれていて、また次の日の営みが始まる。しかも、今日もがんばろう、きっと何とかなるさ」という具合に生活が流れていくときだ。時に忙しいときがあっても、みんなで力を合わせて、大変な時を乗り切れば、またきっと平和が訪れるというイメージをもって過ごせている時だ。ちょうど昭和三十年代の後半から四十年代の半ばくらいまでの日本の平均的生活がそんな感じではなかっただろうか。その頃自分は子供だったので、そう感じるだけかもしれない。その時の大人はそんなことをいうと怒られるかもしれないが、なんかそういう気がする。
ちょうどいいペースで生きているとき、あるいはより自然に近い状態で生きているとき、きっと時間や空間には隙間があって、その隙間の時間は、「何もしない」ということが自然にできていたのだと思う。その瞬間は、過去のことも未来のことも忘れて、今この瞬間ほっと一息つく。ほっと一息だけがすべてになる瞬間、それがリラクゼーションの本質ではないかと思う。
忙しいさなかに、ふと外に目をやると、鳥の声が聞こえる、青空が見える、流れる雲が見える、蝉の声が聞こえる、蛙の声が聞こえる、昼を告げるサイレンがなる、仕事の終わりを告げるサイレンがなる、茶の間から笑い声が聞こえる、木々は茂っている、外では小汚い子供たちが戯れている・・・・そんな風景に思わず気持ちが引っ張られ、その瞬間、忙しさも、焦りも、気になっていたことも、思わず忘れて時の流れに身を任せている自分・・・はっと我に返り、さあ、もう一仕事、もう一頑張りしようと自然に思えるような瞬間・・・それをリラクゼーションというのではないか。
私がいう「何もしないこと」というのはそういう時間と空間の感じ方のことだ。我慢して何もしないとか、がんばって何もしないということではない。そして、そのような状態のことを自律訓練では受動的集中とよび、もっとも本質的な課題とされているのだ。その瞬間、人はエネルギーの放出からエネルギーの蓄積へと機能が変化すると言われている。
今や、生活の中に、そういう瞬間を体験することは難しい。しかし、他でもふれたように、田舎に行ったとき、旅行に行ってきれいな風景をみたとき、思わずすばらしい絵画をみたり、すてきな音楽が聞こえてきた時に、その瞬間、それを体験することがある。それは自分の経験を振り返ってみると何となくわかるのではないだろうか。
では自然からかけ離れ、忙しいく、やかましく、人の思惑に満ちた情報に絶えずさらされている我々が、日常的にそういう感覚を取り戻すにはどうすればよいのか・・・そこで登場するのが瞑想、自律訓練、バイオフィードバック、ヨガ、気功など、自分の内的感覚に受動的に意識を向ける訓練である。
外の状況がいかに変わろうとも、自分の体は実は自然に満ちている。外には見つけられなくても、自分の中は確実に、今この瞬間も自然の奇跡の集大成が命の時間を刻んでいるわけだ。外の情報に振り回されて、目が向いていないだけだ。また、体に関しても、病気や健康法の情報に汚染されたイメージでしかみることができないので、ありのままの自然体験より、異常はないか、病気ではないか、おかしくないか・・そんなことばかりに注意が向いてしまう。
そこで、冷静さを取り戻し、我々が置かれている状況を理解し、原点に返って、先入観なく自分の体と向き合い、その自然を感じ取る訓練をしてみたらどうだろう。何となくするのは、邪念が出てきて難しいだろうから、自律訓練法、瞑想法、座禅など何でもいい。先人たちが開発した方法を利用して訓練してみよう。病気を治すためではない、リラックスするためでもない、自分という自然に目を向け、喜び感動、謙虚さを取り戻すための訓練だ。それができたとき、体と心は自然にリラックス状態になっているのである。リラックスするのではない。リラックスした状態になっているということなのだ。
そうはいっても、近代思想で汚染され尽くした現代人の頭では、それも難しいだろう。毒をもって毒を制す!科学技術でもってリラックス状態に導入する。そんな逆転の発想がバイオフィードバックだ。それについては別の項でふれたし、クリニックのHPに詳しく書いてあるので参照してほしい。
「何もしない」それほど豊かなことはない。持たざるものはもっとも豊かである。執着を捨てよと言い続けた仏の教えが今身にしみるのだ。
2007年06月05日
自分という乗り物
目の前に車がある。見た目はきれいだ、傷もついていない。タイヤも大丈夫。どこからどうみても、何の問題もない。しかし、いざ乗ってみたら、ブレーキの調節は難しい、ハンドル操作もとても不安定だった。それは乗ってみないとわからないし、外から見ている人には、何がどう難しいかわからない。ひょっとすると、こんないい車を運転できないおまえは、へたくそだ、だめなやつだと思われるかもしれない。その難しさは、一度乗ってみなければ、乗って操縦してみなければ決してわからない。
運転が難しいのに、周りからへたくそだといわれたら、当人も、「あー自分は才能がない、だめなやつだ」と思ってしまうかもしれない。その車以外運転したことがないなら、きっとそう思うだろう。
車は、いざとなれば、買い換えればいい。あるいは、そんな車を売りつけたやつをののしって、新車を持ってこいということもできる。
これが人間だったらどうなるのか。人間機械論ではないが、人間にとって、その生物学的性能は、当人の責任ではなくはじめから与えられたものだ。それを与えられ、そこに心が乗っかり、そういうものだと思って体を運転しながら生きていく。しかも、車と違って、どんなに運転しづらくても買い換えることも、乗り換えることもできない。さらにやっかいなことは、運転しづらさを誰にも体験してもらえない。当人しか決してわからないことなのだ。
外から見たら、どこも悪いようには見えない。全く普通に見える。なのに、何で人と同じようにできないのか、何でそんな無茶なことばかりするのか。ちゃんとやろうという意志がない、わがままだ、おまえがおかしい・・・そんな台詞を聞かされ続けている人はたくさんいる。言っている方は、「苦労は誰にでもある、みながんばって生きているんだ」と自分の体からの経験だけでものを言う。
繰り返しいうが、車と違って、人体の乗り心地は、当人しかわからない。誰も変わって操縦を体験することはできないのだ。
何となくわかってもらえただろうか。人は、唯一無二の自分という体に乗っかって、決して降りたり、乗り換えたりできないプロセスを生きていくしかないのだ。だから、人のことをうかつにいうもんじゃない。どんなに乗り心地が悪いかわからないのだから。見かけがどんなに普通に見えても、ブレーキ操作やハンドル操作がどんなに難しいか、その人しかわからないのだから。
自分が何とかうまく自分を乗りこなしている人は、できない人を批判するのではなく、なかなか性能のよい体をくれた自然界に感謝するべきである。それは誰かが何かを努力知った結果ではなく、いただけたのだから。まして、自分の努力などどこにも関与していないのだから。
人間にとって、ブレーキ操作やハンドル操作に当たるのは、感情や気分のコントロールということを意味する。安全な走行、安全な人生を保証する、もっとも重要な要素だ。ガラスが割れていても、ボディに傷がついていても、タイヤが安物でも、ブレーキとハンドルがしっかりしていれば何とか運転できる、生きていける。
ハンドル操作やブレーキ操作は確かに、経験的に身につけるもので、経験とともにより上手になるわけだ。しかし、はじめからうまく機能しなければ、それを操るには人一倍苦労がいるし、どんなにがんばっていても時々事故を起こすだろう。それは、避難することではなく、その車を運転するしかない人を、手助けしたり応援してあげるべきだ。なぜなら、その人たちが、それでもそこそこの運転をしてくれないと、ほかの人も事故に巻き込まれる可能性がある。その人を「このへたくそ、馬鹿!」とののしったところでどうにもならないのだから。
人体と車とかけて、話を進めてみたが、何となくわかっていただけただろうか。
人は生まれたときに、その人固有の性能を授かって生まれてくる。そして、それから逃れることはできず、その操縦を身につけてくる。あまりコントロールがきかない乗り物に乗った人でも、道が平坦なうちはまだ、大丈夫だろう。交通量が増えたり、道が複雑になると、操縦しきれなくなって当然なのだ。「ある年齢まで、何も問題がなかった、それなのに、何でこんなことになるのか。甘えているからだ、自立心が足りないからだ」さんざん聞かされてつらい思いをした人も多いだろう。
みな理解してほしい。人はみな違うのだと。自分にできることが人にもできるわけではないのだということを。それさえわかっていれば、卑屈になることもないし、傲慢になることもない。きっと協力して生きていけるはずだ。
2007年05月07日
リラクゼーション(3)−リラックスを阻害する文化
リラクゼーションの本質は、何もしないことであることは分かっていただけただろうか。仏の教えの中核「執着を捨てる」ということに通じる。恒常的に何もかもを捨てるのは難しいだろうが、その時、その瞬間に、できるだけその状態に近づければ十分だ。簡単なようでとても難しいのは、我々の生活が真逆のことで埋め尽くされているからだ。常に何かを求め、考え、努力し、得られないことに悩み、嘆き、怒り、得られた人をねたみ、うらやみ、うまくいかない自分をのろい、悲しむ・・・。そして、その状況を変えるためには、より多くの努力をすべきであると無条件に信じている。
常に何かをしていないと落ち着かないとか不安になる。あるいは、何もしていないことは無駄である。ぼーっとしているのはさぼっているように思われる。
ここで重要なのは、人間の考え方が変わったとか、人が欲にまみれているからとかいうことではないことだ。人の生き方の問題であるのなら、この状況を指摘して、「気をつけましょうね。少しゆとりを持ちましょうね」とか言葉をかけてあげればいい。言われた人は「あーそういう言われてみればそうだなー、これから気をつけよう」と気づいて生き方が変わる・・・はずだ。しかし、そうはならない、なるはずがない。そんな簡単な話ではない。
環境・資源問題と同じだ。「このままでは環境破壊が進みます。温暖化します。エネルギーを節約しましょう。ものを大切にして、ごみを減らしましょう。」とか言われて、「そうだなー、車はやめて、公共交通機関を使おう。」とか「ごみを減らすために過剰包装の物は買わないようにしよう」とかできるか?できないだろう。それは、個々人の意志が弱いからか?そうじゃないだろう。
社会文化がすっかり、車用に、過剰包装するようにできてしまっているのだ。車が普通に買える値段で売られ、ガソリンの値段も変動はあっても買えないほどの値段でもなく、道は車用に舗装されて、縦横無尽にシステマティックに張り巡らされ、行く先々では巨大な駐車場が用意され、そこに行けば何でも買えるショッピングモールができていれば、車に乗りましょうと言っているようなものだろう。そして、その反動で、近所にあった小売店はどんどんつぶれてしまう。
小売店なら過剰包装せずに家から持ってきた入れ物に入れて売れた物が、遠くまで買いに行くから過剰包装になる。それに同調して、きれいさ、清潔さ、デザイン性が重視されるようになると、ごみの元はどんどん増える一方だ。
そういう社会環境の中で、資源をどうのこうの言ったって、どうにもなるはずがない。
心のゆとりがないのも、それと同じように社会構造の問題なのだ。街は整備されて隙間はどんどん新しい建物で埋め尽くされる。物が増えて生活の中もやることだらけ、覚えることだらけだ。次々に新製品が生み出されるたびに、新しいことを覚えないといけない。単調さは否定され、複雑なことをスマートにできることが良いことのように感じられる。
交通手段の進歩?は流通、移動の時間を短縮し、しかも正確にできるようにした。さらにそれを加速するように、インターネット社会がほぼ完成し、携帯電話の普及もものすごい。それによってコミュニケーションにも余裕がなくなった。今思ったことを今伝え、今すぐ返事がほしいという環境になった。人々はますます待てなくなる。待たされると、怒り出すか、妄想が始まるわけだ。
そしてどうなったか?いつも頭の中は考え事だらけだ。便利になれば暇ができて、ゆとりのある生活になるはずじゃなかったのか?しかし現実は、隙間がどんどん他の物で埋められていっただけだ。暇と暇なままにしておいてくれない。隙間の取り合いがおこるわけだ。そこにどんどん新しい価値が入り込み、それを買うためにさらにお金が必要になる。そして、ますます忙しくなるし、心はいつも貧しく、満たされない。常に何かをしなくてはいけない気持ちに駆り立てられる。
街を見渡してみよ。意味のない空間があるだろうか?すべて「名前のある物」で埋め尽くされているだろう。名前のない空間がどれくらい残っているか?この空間が心のゆとりなのだ。田舎にいく、山の中にいく・・そのとき、どうして心が少しだけゆとりを感じるのか。それは意味のない空間がそこにあるからだ。意味のない空間にいれば、何も考えずにすむだろう。しかし、そこに時計があって、次のスケジュールがあれば、とたんに心は次の予定に飛んでいってしまうので台無しだ。
結局、今の社会文化の中で生きていれば、何もしないことはとても難しいことなのだということを自覚してほしい。環境問題と同じで、そうせざるを得ない状況が知らぬまにできてしまっているのだ。その中で、何とかしようとするのは、自覚的に工夫するしかない。無意識にそれができている人もいるのも事実だ。世のおかしな流れになびかずに、自分のペースを維持できたり、上手に切り替えて、自分の世界を維持できたり、上手にバランスがとれている人だ。
しかし、多くの人は、世の中のシステムに無条件に組み込まれて、知らず知らずのうちにあわただしい、心に余裕のない生き方になっていく。それでも、昔の隙間だらけの、時間の流れが速くない、交通手段もゆっくりで、インターネットもない時代を知っている人間はまだましだ。その異常さを自覚できるからだ。 しかし、今の文化の中で生まれ育った人間は、それが当たり前のことであり、そうではない感覚は想像もできないことになる。
リラックスとはゆとりと言いかえてもよい。ゆとりとは心の余裕である。それは「結論を急がない、待つことができる大人の力」である。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざ通り、やるだけやって、結果を待つ、そしてどのような結果になろうとも、それは結果をして受け止める。それが大人の力であり、リラクゼーションの本質である。
それは待つ力を鍛えることによって身につくわけだ。まだ情報も少なく、何をするにも時間がかかる時代に、そういう環境の中で試行錯誤を繰り返しながら、その力を徐々に身につけていく。それが人として成長することだったのだ。
しかし今はどうだ、「あふれる情報」、「今やったことの結果を今求める、時間の余裕のない文化」、「正確さを求め失敗を恐れ、傷つくことを恐れる文化」。そういった環境の中で、どうやって待つ力を身につけるのか、ゆとりをもつ力を身につけるのか・・・。
結局、時代は大間違いを犯して、リラクセーションをも一つの情報、一つの技術にしてしまった。努力してリラクゼーション法を身につけるというわけのわからない状況ができてしまった。「何もしない」はずのリラクゼーションが、いつの間にか、「努力して成し遂げること」のようになってしまった。この末期的状況を理解し、そのような状況下でも何とかリラックスできるようになるためにはどうすればよいのかを考えてみよう。
2007年05月04日
リラクゼーション(2)−リラックスする?
リラクゼーションとは何か、それが問題だ。癒しブームによって、いろいろな方法がメディアから垂れ流されている。慢性的に疲労して、休まることのない人々は、その情報に簡単に引っかかり、何かよい方法はないかと、どの方法が一番良いのかと探し求め続けるのだ。「どうすればリラックスできるのか」その問いかけから、間違った方向に進み、「〜すればリラックスできます」となり、最悪なのは「頑張ってリラックス法を身につけましょう」となってしまう。
原点に戻り、冷静に考えてみよう。「リラックス」とは何か。リラックスの反対は「緊張(tension)」である。緊張とは何か、それは良い結果を導くため、あるいは悪い結果にならないための「心の身構え」と言えるだろう。言い換えれば「何かを成し遂げる」ために費やされる「心の張り」だ(ちょっとしつこいかな)。となれば、リラックスとは何か分かりますね。そう、「何も成し遂げようとしない」時の心の状態なのだ。
であれば、「リラックスをする」というのは言葉が矛盾しているわけで、「リラックスを身につける為に頑張る」などというのは逆効果となってしまう。
「リラックス」=「何もしないこと」。そんな簡単な、そんな馬鹿みたいなこと・・・とお思いだろうが、実はこれが如何に難しいかということだ。何もしないでいられる能力、これは現代社会においてはとても困難なことになってしまったのだ。それは「何もしない」=「無駄」、「努力」=「何かを成し遂げようとすること」が最も価値あることだという大錯覚が、社会文化の中に完璧に浸透してしまったからだ。これこそが、教育における最大の失敗だったのではないかと思う。
話はそれるが、学校教育はそれでよいと思う。「読み、書き、そろばん」と昔から言われたが、学校教育は人に必要なすべてを与える場ではなくて、社会的活動をするために必要な最低限の技術を訓練する場といえよう。つまり「何かを成し遂げる」こと「緊張と集中」を学ぶ場だということだ。
家庭あるいは生活の拠点は、安心できる場であることが望ましく、「何も成し遂げなくても大丈夫」「ゆっくりしていてもいい」という感覚を学ぶのだ。順序から言えば、まず、安心して生きる体験を十分にして、生きるための基礎固めをしてから、学校にあがって、「緊張と集中」のトレーニングを受けるのだ。訓練を受けた後、家に帰れば、ゆっくり休めて、心身ともにリセットして次の日を迎える。そういった、緊張と弛緩の繰り返しによって、心身のバランスの取り方を身につけていくのが理想的なのだ。
今こそ、緊張と集中を学ぶことが大切なだけ、何もしないことが同じように大切だという価値観を取り戻さないといけない。
話をもどす。理想論を言っていても、今現実がそうではないのだから、今の世界でどうすればよいのかを考えないといけない。何をしたらよいか、何をしてはいけないのかを考えないといけない。
我々の文化は何を失い、何がうまくいかなくなったのか。そこを整理し、リラクゼーションのために何をどう工夫すれば良いのかを次に説明する。
リラクゼーション(1)−癒しブームの背景
しばらく前から癒やしブームが始まり、今のところその状況が続いている。癒やしがはやるのは、癒やしを求める人がおおいからだ。つまり、現代人はストレスフルである、簡単に言えば心が疲れている。身体疲労がけでいえば、高度成長期の方がハードワークをしていたのではないだろうか。単純な肉体的疲労は、普通に身体を休めていれば回復する。問題は休んでいるのに回復しにくい疲れだ。
回復しやすい疲れと回復しにくい疲れがあるのは、多くの人が何となく経験しているのではないだろうか。例えば、何かの競技で全力を出したとする。しかも、結果は自分にとって納得できるものだったとしよう。そういう時は、嫌な疲れは感じず、むしろやるだけやったという満足感を伴う疲れだろう。そういう時には回復も早いものだ。しかし、納得できない結果に終わる、力を出し切れずに終わったとする。その時は、嫌な疲労感が残り、いつまでも嫌な感じが続くだろう。精神的な疲れも同じだ。試験で力を出し切り結果も良かったならば、ものすごく疲労したはずだが、回復は早いに違いない。
つまり、疲労感は単純に量的に比較できるものではないということだ。
高度成長期、明日を信じ、報われると信じられる努力によって感じる疲労は決して不快なものではない。それに、仕事が終われば満足感をもって、休息に入ることができて心身ともにリセットされやすいだろう。
しかし、今の世は、未来を信じることができず、正当な労働だとも感じられず、何かしら不平等感と先の見えなさにさいなまれながらの労働になる。納得も満足もしにくいので、切り替えもできず、仕事が終わっても仕事のことが頭から離れず、リセットできない。
「自分のやっていることが良いことだと感じられない」「自分の努力が明日につながると実感できない」「先が見えない」など、現代社会が抱える矛盾が、そのまま人々の心をむしばんでいる。みんなで良くしようという連帯感はなくなり、自分だけは生き残りたいという利己的、排他的な雰囲気が心をすさんだものにしてしまう。
それゆえ、今、人々は疲れている、慢性的に疲れている。どこかでホッとしたい、安心したいと思い続けている。その思いが「癒しブーム」のベースになっているのだろうと思う。
2007年03月22日
考えない訓練(4)−なにを訓練するのか
自律訓練法、呼吸法、その他、さまざまな方法は、その技術的な面が強調されるが、実はもっと本質的な要素は、意識の集中にある。人は一度にいろいろなことをしているような気がするが、しっかり理解できるのは、(その瞬間だけとってみれば)一つだけ、一点だけなのである。同時に二つの事は処理できない。それは何かを行うには意識の集中が必要だからだ。二つの事に意識が行ったら、それは集中ではないわけで、やはり、その瞬間に集中できるのは一点なのだ。聖徳太子は一度に複数の人間の話を理解できたと言われるが、それだって、少しずつ一人の話を1秒聞いて、次の人を1秒聞いて・・・また元に戻ってという具合に、スキャンしながら複数の話を聞きながら、断片的な話を順番や前後関係を間違えずに組み立てることができたってことだろう。それはコンピュータのような切り替えの速さと冷静さがないととても無理なので、本当ならものすごく特殊な脳味噌、ものすごい集中力をもっていたってことだろう。何が言いたいかというと、聖徳太子が同時に複数の話を聞けたということではなく、聖徳太子だって一度に集中できるのは一点だけだということが言いたいのだ。
聖徳太子の反対の脳味噌として、AD/HDという問題がある。集中力が持続できない脳の性質を持った人のことだ。あるいは集中するために、集中力を維持するために、強い刺激を必要とする脳の性質をさす。そういう人は、何かをやりだすのに一苦労だし、いざやりだすと、すぐに他のことに意識をとられてしまうので、あれもこれもやろうとして結局何もできないという状態に陥る。何かしていも、他に刺激があるとそっちに引っ張られて、もともとやっていたことを忘れてしまう。結局、ミスや忘れ物が多かったり、物事を最後までやり遂げられなくて困るか、非難されることになる。あるいは、逆に自分の興味のあることに過度に集中したり、危険な出来事のように集中を引き出される状況を無意識に選択してしまって危険な人生になる。
普段何気なく過ごしているが、実は人間にとって集中力の維持というのがものすごく大切だということだ。興味のあること、刺激の強いことに集中するのは簡単だ。たとえば、好きな映画や漫画なら時がたつのを忘れて最後まで見てしまう。あるいは悲惨な事件、大規模な事件が起きると、多くの人が今やっていることを忘れて、テレビに釘付けになる光景を見たことがあるだろう。
難しいのは、退屈な日常に対して、意識を集中することだ。興味がなくてもしなくてはいけないことがある。やりたくないけどやらなくてはいけないことがある。考えただけで気が滅入るとか、おっくうになることがある。それでも生きていくためには、一定の集中力を発揮しなくてはいけない。適度に集中して、気持ちを上手に切り替えて、疲れすぎないようにして、細く長く集中力を維持する能力は、生きていくためには非常に重要だ。その力が成長過程で適度に発達してくるかどうかは、元々の脳の性質プラス、日常の訓練の積み重ねによる。
誰もそんなことは意識することはなく、ほとんどの人は何となく生きているし、もっと別のことが大事だとおもって訓練している。例えば学力とか何かの才能を伸ばすこととか、結果が分かりやすいことにエネルギーを費やしていることだろう。そして、それがうまくいったとか行かなかったとか、行かないと、努力が足りないとか、やる気がないとか何の根拠もないバッシングを受けたりする。
集中力を維持する訓練は、思うようにならないことに対して、あきらめることなく、成果があってもなくても、真面目に取り組み続けることによってしか育たない。あまりにも自分の能力とかけ離れたことは、取り組みようがないので訓練にならない。理想的なのは、自分の能力をほんの少し超えることで、自分がそれなりに興味を持てること、しかし、なかなか成果が現れないことに長い年月取り組むことだ。
集中力をコントロールできるようになれば、落ち着いて行動できるようになる。そうすれば、判断を誤ることがへるし、人生があわただしくなくなる。思いつきや衝動的な行動も減るだろう。ただし、何かすごいことが起こるとか、何かが得られるということではない。平和に生きられる可能性が広がるということだけ、あるいは自分本来の能力にそぐう生き方ができるというだけだ。
自分探しとかいって、ありのままの自分を受け入れると言いながら、人は何かを得ようとして必死だ。ありのままの自分でいいなら、何もない退屈な日常に、ささやかな喜びを見いだしながら、それなりに生きていける。ありのままで良いと言いながら、ありのままでいられないから苦しいのだ。
人は常に何かを考えているものだ、今の自分の状態と社会との関わりが、それなりにかみ合っている時は何も問題を感じないだろうが、それがずれると、何かしら違和感を感じ、ひどくなると病気につながる。その時、頭に浮かぶのは、どうして、なぜ、どうやれば・・などなど、心が迷う内容、集中力をそぐ内容ばかりだ。
困ったときこそ何も考えてはいけない。何も考えず、今日一日、今このときを過ごすことだけに意識を集中することだ。リラクゼーション訓練、自律訓練は、何でもない状態に耐える力を身につける、何でもないことに集中力を向けられる訓練をすることであり、何かすごいことを起こすことが目的ではない。訓練をするのなら、無心になる訓練、今この瞬間の自分の身体感覚に集中する訓練だと思ってほしい。それで何か変化を起こそうと、余計なことを考えたら台無しになってします。
状態をよくしたいなら、よくしたいと考えないことだ。状態をよくしたいのなら、今の悪さから逃れようとせず、冷静に今の状態を評価し、必要なら薬を利用し、できるだけ、今のままでいること、余分なことをせず、今すべき日常のことだけに意識を集中することだ。
非常に抽象的で、わかりにくいと思うが、これが最も本質的な課題なのだと思う。これが如何に難しいかというと、そういうことを実践しているのは、おそらく出家して寺で修行をしているお坊さんの一部だけだからだ。われわれはそんなことはできない。でも何もできないわけじゃない。一日にほんの数分でもいいから、そういう気持ちで過ごす訓練をしてみよう。結果をもとめず、ただそれだけを続けてみよう。そんなことをして何か良いことがあるの、どうなるっていうの?という気持ちは、横に置いておこう。本当に大切なことは、自分が予想できるような形では起こらない。本当に大事なことは、きっと自分の知らないところからやってくるのだから。
2007年03月10日
お知らせ
そこで思いついたのは、HP、ブログを読まれた方で、何か質問、疑問、要望があれば、それを教えてもらって、それについて書いたらどうかってことだ。
私は基本的には聞かれれば、答えられるが、自分から何かを思いつくのが、どうも苦手だ。誰からどういう質問が来たかは公表しないし、回答しにくい質問とか、不適切な質問には答えないが、自分で勝手に判断して、これは是非書きたいという質問をベースに書いてみようと思う。
メール自体には返事はしません。ブログの内容を持って返事とさせていただきます。何か思いついた人は遠慮無くメールしてください。
yoyaku@take-clinic.com
メールは上のアドレスにお願いします。
2006年12月17日
考えない訓練(3)−再度、考えないことの大切さについて−
考えないための練習方法、対処法に話を移す前に、しつこいようだが、なぜ考えない訓練が必要なのか、もう一度強調したい。しつこい性格なので・・・冷静に振り返ってみれば、調子がよいときは考えることは少なく、日々するべき事を淡々とこなしているだけだ。しかし、ひとたび問題が起こるとあれこれ考えをめぐらせ始める。考えて考えて、何か答えを見つけて何とかなって、のど元を過ぎれば、また普通の生活にもどっていく。生きている間、その繰り返しである。
考えた末に解決ができる問題であればそれでいい。ただ、そう簡単に答えが出ないとか、初めての体験であるとか、苦手な出来事であったとき、事態はより複雑になる。
そこで、誰かに相談して指示を仰いだり、開き直って一つの方針を決めたりして行動に移し、その結果を受け止めていける場合は苦労の果てに乗り越えていけるし、それが一つの経験となり自分の成長につながる。
このとき、何が起こっているかと言えば、「人の意見に従う」、「開き直って一つの道を選ぶ」という形で「考えることを減らしている」わけだ。考えることを減らせば行動に移りやすくなる。
行動に移れない人は、「相談できる人がいないか意見に従えるほど信用できる人がいない」、あるいは「信用できないとか相談できないとか内面的弱点がある」、「結果を恐れるとか、もっと良い方法がないかと迷うとか心を一つにまとめる事が苦手である」などそれぞれの事情があるわけだ。
問題は、行動に移すことが苦手であることではなく、その結果として、頭の中でいろいろな想像が限りなくふくらんでいくことなのだ。行動に移すためには考えることを減らすことだとすれば、想像がふくらむことで考えることが増えてますます行動できなくなってしまうわけだ。解決とは一つの行動を選択することなので、そうなれば解決にはいたることはない。
さらにやっかいなことは、現実と想像の区別がつかなくなることだ。その区別は、冷静なときでも難しい。例えば、何か苦手なタイプの人に出会うとする。自分の心の中には、いろいろな想像がふくらむ。「怒っているのか、文句が言いたいのか・・」それはすべて想像なので、冷静で客観的な立場をとれるなら、普通に挨拶して、何か用事でしょうかと聞けばよい。しかし、それができないと「きっと〜に違いない」と思いこみ、それがいつの間にか現実となり、こっちも相手にけんか口調で突っかかるとか、逃げ出すことになりかねない。
ましてや、悩みすぎたり、睡眠不足だったりして脳が疲れていると、冷静で客観的な視点を維持することは困難になり、想像がふくらみはじめる。冷静で客観的であるというのか、一歩引いて全体を見渡せるということだ。広い視野をもち、思考が偏らないようにすることである。疲れていると、それができないので、ある偏ったことだけがひどく気になるようになる。
結局のところ、我々の思考は脳の働きが大いに関係しているので、脳が正常に機能してくれないと、よい考えはでてこない。疲労した頭で、冷静さを欠いた頭でものを考えても、よい考えやよい解決法が浮かんでくるわけはないのだ。しかも、浮かんできた想像は、容易に「現実」であると錯覚されてしまう。そして、間違った錯覚の「現実」認知に基づいて、行動をしようとすれば良い結果になるわけがない。最終的には、「八方ふさがりでどうしようもない」「自分はダメな人間なんだ」「生きている価値がない、生まれてくるのではなかった」という自虐スパイラルに陥るか、「自分を追い詰める周りが悪いのだ」「周りはすべて敵だ」という攻撃的スパイラルに、あるいはその両方に陥ってしまう。
繰り返しいうが、問題を解決するというのは、「考えることを減らすこと」最終的には「一つの考えに絞り込むこと」なのである。調子がよいときは、考えなしに、たまたまそれができているので、それは簡単なことだと錯覚しているだけで、考えを減らすことはとても難しいことなのだ。
そこで、考えを減らす訓練が必要になるのだが、まさか、滝にうたれたり、寺にこもって修行するわけにもいかないので、現代人の為の行が必要になる。それが「自律訓練法」をはじめ、具体的な方法について考えてみる。
2006年12月10日
考えない訓練(2)−修行の効用−
リラックス、リラクセーションなどなど、メンタルヘルスがファッションのように扱われるようになって久しい。街の中には、「癒し」をうたうサロンが次々にできていく。現代人が如何に身も心も疲れているかという証拠だろう。力を入れることは小さいときから自然に訓練されてきたが、力の抜き方が分からないのだ。今は、お金をはらって、誰かにもみほぐしてもらったり、○○セラピーを受けて、リラックスを手伝ってもらうのが、普通になっている。自分でやることとしては、ヨガ、気功、自律訓練法などがある。
結果として、何とかなれば良いのだが、使い方を間違えると、頑張っている割にはよい結果が生まれない。間違った使い方とは「この方法でリラックスしよう」と「考えてしまう」ことである。
昔から、「修行」とか「行」とか呼ばれる行為がある。滝にうたれたり、座禅を組んだり、単調な動作を延々と何ヶ月何年と繰り返す行為のことだ。これは何をしているのだろうか。単調であるだけでも「何でこんな事しなくてはならないのか」と思うだろう。ましてや、その行為に「苦痛」が伴えば、すぐに「こんなことして何になる」と言いたくなり、やめてしまうだろう。修行とは、そういった「通常ではとても続けられないような事を延々と続ける訓練」なのである。「これをしたら〜になれる」「これを続ければ〜が得られる」などという小賢しい考えは、その単調さと苦痛の前には簡単に消し飛んでしまうわけだ。
それでも、あきらめずにそれを続けたらどうなるか・・・(私は修行を積んだわけではないが、日々が「行」であると思って生きているので、きっとそうだろうなと思う根拠で話を続けます)。そのうちに、何も考えなくなる。続けることだけが目標となり、理由はどうでもよくなる。そのうち、目標という意識もなくなり、ただ続ける、行為する自分になる。時々、「考え」が頭をよぎるが、それも軽く流して、こだわらないようになる。時に強く「考え」が襲ってきて(疲れていたり、体調が悪いと)、少し揺らぐが、それでも中心がしっかりしてくると、「考える方」ではなく「考えない方」にバランスが戻せるようになる。修行とはそういった心の訓練なのだと思うのだ。確かにやっていることは体をつかっているのだが、心の訓練をしているわけだ。決して、神に近づくことや超能力を身につけるためではない、「普通に生きる」ための訓練なのだと思う。「普通に生きる」ということは、想像以上に難しいことで、時として訓練が必要になるくらい、難しいのだと思う。
「何となく生きる」のと「普通に生きる」というのは全く違う。何となく生きて、何となく問題がないのは、何か妨げる出来事に遭遇すれば、はかなくバランスを崩すだろう。普通に生きるというのは、いついかなる時も自分を見失わず、普通に生きるということだ。バランスと保つためには普通が中心になるのであり、良い状態を基準にしてはいけないのだ。良い状態を維持しようとすれば、バランスが保てなくなるのは明らかだろう。それに良い状態というのは、「自分の考え通り」に事が進んでいる状態をさすのだから。普通に生きるというのは、「自分の思う通りではないが、何とかなっている」くらいの状態なのだ。
それと、もう一つ大事なことがある。「修行」のように、毎日何も変わらぬ行為を繰り返すと、些細な変化に気づくようになり、些細なことに喜びを感じられるようになるということだ。何かを成し遂げようという思いで行動していれば、目標と関係ないことは頭に浮かばないし、一見関係ないものに興味は向かわないだろう。しかし、無目的に、あるいは純粋な気持ちで同じ事を繰り返すと、季節の移り変わり、道の傍らにある自然の変化が発見されるかも知れない。また、ただ天気がよいとか、寒くないということに、ありがたさを実感できるかもしれない。自分がこうして生きていること自体がありがたいことのように思えてくるかも知れない。
そのように、「修行」とは余分なことを考えない訓練であり、同時に、小さな変化を感じ取り、小さなことに感動を覚えることができる訓練なのだと思う。
これは自律訓練で目標とされる「受動的集中」「変性意識状態」ということにもつながるので、次にそれについて説明する。
2006年12月09日
考えない訓練(1)−考えないことの難しさ
我々は子供の頃から、考えることを絶えず教え込まれて生きてくる。そもそも勉強は考える訓練なので、それはそれでよい。しかし、その影響で、生活すべての中において、考えること、考えて答えを見つけることが何よりも大切なことだという盲目的な信念が一般化している。「よく考えなさい」「胸に手を当てて考えろ」「知恵を絞れ」などど、耳にたこができるくらい言われてきただろう。「あいつは何も考えていない」というのは相手を悪く言うときの言葉だ。多くの場合、より冷静に、よりよく考えた方がよいことはたくさんある。考えることが悪いことだと言っているのではない。考えることに重きを置きすぎて、「考えない力」をおろそかにしていることが問題なのだ。
それはどういうことなのか、ピント来ないかもしれないが、場面をスポーツにうつしてみるとわかりやすい。特に、正念場とか窮地に立たされたときだ。
「何も考えるな。思い切っていけ」
選手は、雑念を振り払い、目の前のことに全神経を集中する。「何をなすべきかは分かっている。もはやここまで来て、あれこれ考えて役に立つはずがない。自分の力を、これまでの努力で身につけたものを信じて、ただやる抜くのみ!」そういう感じだろう。
この場合、目標ははっきりしているが、考えない力が試される時だ。
また、仕事などで行き詰まったとき。あれこれ考えすぎて、追い詰められている時、同僚や先輩が「あまり難しく考えすぎるな、とにかく、今やるべきことをやっていればいいんだよ」とかいうセリフも実際や、ドラマなどで耳にしたことがあるだろう。
人は、ある局面では、「考えない方がいい」と言うことは知っている。問題は、「考えないことは、考えることより簡単なこと」だと錯覚していることだ。先に書いたように、我々は、考える努力を絶えず訓練されてくる。いわゆる「考え無し」の人とは、本来考えなければいけないことを考えていない人をいう。本当に大事なことは、「役には立たないのに考えたくなるような場面、考えてもしょうがないのに考えを止められない場面で、考えを止める力」なのである。
「考えないこと」は「考えること」より簡単なことだという錯覚が、その訓練を怠らせるのである。似たようなことは、「緊張」と「弛緩」、「力を入れること」と「力を抜くこと」の関係である。
「懇親の力を込めろ」と言われれば、即座に思いっきり手を握りしめたり、体に力を入れたりするだろう。それは練習していなくても本能的にできる。しかし、逆に「思いっきり力を抜け、リラックスしろ」と言われても今ひとつそれができているのかどうか曖昧だ。力を入れることは器械で測定できるし、ボールがどれだけ飛んだかとか数値でわかりやすい。しかし、力の抜け具合は主観的なものなので、本人が抜きましたといえば、はいそうですかとなって、数値で表しにくい。
「考えろ」というのも「何を考えたか」という答えとして表現できるが、「考えるな」というのは出来ているのかどうか分からない。
つまり「力を抜くことの方が、力を入れることより難しい」ように「考えないことは、考えることより難しいのだ」、少なくとも意識的にする場合は。
考えない訓練とはどうすることなのか、それについて考えてみよう。
2006年10月29日
こころとからだ(3) −「疾患と思考」−
前回、人間の思考の背景には、環境−体調−気分−情動が関与していることを書きました。と言うことは病気を考える場合、その中のどのレベルが関与しているかが重要になります。環境は変えられませんのでそれはおいておきましょう。ただし、冬季うつ病には光線が関与していることから、抑うつ気分に対して光線療法なる治療法があります。これは擬似環境といえるので環境変化と言えなくもないです。
次に体調ですが、これは本当の身体疾患から、極度の疲労や、睡眠不足、月経関連、更年期などが関係します。そして、すべての治療の基本は体調管理です。たいていの疾患には不眠症状が伴いますから、睡眠障害の治療はすべての基本と言えます。また、慢性疲労をとるために仕事を休むとか誰かに手助けしてもらうなどの工夫が必要になります。女性のホルモン関係の症状には漢方薬が効果的であることが多いです。苦痛を伴う身体疾患、身体症状があるときは、それの治療も必要です。ただし、身体症状の中にも身体表現性障害(古典的な言い方ではヒステリー)というものがあるので、それは身体的治療では改善しませんから配慮は必要です。
まあそこまでは多めに見て、問題を「気分−情動−思考」という部分に焦点をあてます。精神疾患には大きく分ければ、「気分障害」「情動障害」「思考障害」があるということです。それらは明確に区別できるものではなく、関連しあっていますが、その人にとって、どの部分が一番問題かは違ってきます。うつ病、双極性障害などは「気分の病気」、パニック、社会不安障害などは「不安の病気」、統合失調症やその他妄想性障害は「思考の病気」と言えます。
思考自体に病理があるときは、その思考の不安定性、偏りを治療対象にしますから、考え方を変えるどころか、考え方を変えられるように薬を利用するのが妥当です。思考障害がある人に、「どうしてそういう考え方をするの」といっても意味はないです。そのように思考が偏っているのか、解体してしまっているのかということを専門家がみて適切な指導をしてくれるのに従うべきでしょう。
次に気分の病気について考えてみます。気分は、それが正常範囲なのか病的なのかが本人には非常に区別が難しいのでやっかいです。通常、空腹ではイライラして怒りっぽくなるし、何か良いことがあって浮かれていると人に対して寛大になります。そのように、気分ひとつで思考や行動まで変わってしまうのですが、健康な時はそんなことを問題だと思いません。気分障害という病気になると、思考の元となる気分が自分の意志に反して、あるいは自分が思っているよりはるかに大きく変動してしまいます。
人は通常、気分の方を疑わず、その時に浮かんでくる考えや行動に駆り立てる動機を自分の意志であると無条件に受け入れてしまう傾向があります。ですから、気分の病気があると、思考内容や行動に問題が生じます。そして、客観的に見れば、そんなふうに考えなくてもいいことにとらわれたり、不適切な行動をしてしまったりするわけです。
例えばうつ状態やうつ病の時は八方塞がりの考えに陥り死ぬしかないと考えてしまうことがあります。うつ気分のが改善すると「あの時はどうしてあんなことを考えていたのかな」と思えるようになります。ですから、うつ病の自殺念慮には注意が必要なのです。
反対に、躁状態になると何でも出来そうな考えてになったり、考えが忙しくなり、行動が不自然になったり、トラブルが増えたりします。普段しないようなことを、急にやろうすることもあります。一概には言えませんが、軽躁状態の時は、本人は活力を感じて気分が良いので、なおさらそれが病的な状態だと気づきにくいです。躁状態から抜けて普通の状態になると、「普通じゃなかった」と分かりますが、そのままうつ状態になると、余計に躁状態の時が良かったと感じるので、なかなか普通の状態が受け入れにくくなります。
双極性障害2型という病態では、いわゆる躁うつ病ほど激しい気分の変動ではなく、ともすると、気まぐれ、わがままと誤解されるような気分の変動が起こります。外からみると、何であんなに気分の波が激しいんだと批判的に見られてしまうことがありますが、本人自身が自分の気分に振り回されて困っているわけです。
こういった気分の問題を自覚するのは、本人には難しく、身近にいて客観的に判断できる人が気づくことが大事です。うつは本人も苦しいので、問題を指摘されると受け入れ易いですが、軽躁状態は人に指摘されても、余計なお世話、自分を邪魔する、批判すると取られてしまい、自覚させるのはより難しいです。
このような問題は、普通に言い聞かせるとか注意するとかで解決する問題ではなく、やはり治療が必要です。治療には抗うつ剤や気分調整剤を使いますが、それだけで解決するわけではなく、本人も「気分が揺れ易い自分をの性質」を理解し、気分に振り回されず、気分にだまされず、注意深く行動できるように訓練する必要があります。それは耐糖能異常(糖尿病になりやすさ)がある人が、食事や運動、過度のストレスに注意しながら生活するのと全く同じことです。目標は、「いつも元気」ではなく「良くも悪くもない、まあこんなものかな」という状態であることも忘れてはいけません。良くしよう良くしようとしてかえって波が大きくなる事が多いですから。
もう一つ、思考を混乱させる病態として、「病的不安」があります。不安自体は、誰でも経験するし、正常範囲の不安と病的不安の境界はあいまいです。不安の種類にはパニック、恐怖症、強迫観念、心気症状、対人不安などがあります。軽いものは、多くの人が経験するしており、理解できる内容です。しかし、それが病的になれば、理解できないというより、いくら言っても納得できず、堂々巡りのやり取りになり、敬遠されることになります。本人もおかしいと自覚できるのですが、分かっていてもコントロールできない訳です。おかしさを分かっているだけに、隠そうとして悪循環になることが多いのです。
不安の内容は様々ですが、総じて「ある種の考えが頭から離れない、おかしいと頭では分かっているけど、その考えが付きまとう」という現象に陥ります。分かっているだけに、「自分は頭がおかしくなった」と恐れることがしばしばあります。
これらの状態は、情緒、感情に思考が負けているということです。強い不安の前には思考はなすすべがないということです。それに対処するためには、まず不安の程度を軽くしないと無理です。水が怖くて泳げない子供が、浮輪なしで水に入る練習をすることが難しいのと同じです。幸い不安を軽減する薬は、抗不安薬やSSRIといった物があるので、上手に利用して訓練して行けばよいわけです。
不安は無くすことが目標ではありません。人は生きているうち、不安から逃れられません。というより、適度な不安は、命を守るための安全装置なのです。適度な不安というのが難しいのです。無事に生活しているように見える人の多くは、適度な不安と上手に付き合っているのではなく、「自分は大丈夫」という何の根拠もない楽観の上に辛うじて乗っかっているだけです。適度な不安を持って生きるというのは、恐らく苦境を切り抜け、自分の弱さを理解して、謙虚に生きている人だけが持っている感覚なのだと思います。
以上のように、人の思考は気分や感情で簡単に揺らいでしまいます。そのことを理解して、自分の状態をできだけ客観的に見る訓練をしておきましょう。ピンチだと思ったら、まず内容に入る前に「自分のおかれた状況、体調、気分、感情」をモニターし、ゆっくり冷静に思考を進めて行きましょうね。
2006年10月23日
こころとからだ(2)−「環境−体調−気分−情動−思考」
あまりに強い身体反応のために、私たちの思考が判断ミスを犯す典型的な現象は「パニック障害」です。命が危ない、自分を保持できないという間違った信号が発せられ、そのような身体・情動反応がおきるので、本人はなぜだか分からないまま、「自分は〜してはいけない、〜できないんだ」という錯覚に陥ります。そして時間とともにその思考が確信にかわり、身体をより過敏にさせて、ますます身体を反応が起き易い状態になるという悪循環にはまります。身体反応・情動反応の他に、もっとだまされ易いのが「気分」です。これは女性の方が身近に感じるでしょう。月経周期によって気分が大きく変動し、憂鬱になったり起こりっぽくなったり、あるいは元々ある症状が悪化したりします。人によって波の起こり方は差がありますが、周期のある段階になったときに、嘘のようにそれまでの苛立ちや憂鬱感が軽減します。場合によってはすっかりなくなります。すぎてしまうと、「あれは生理によるものだったんだ」と分かりますが、その渦中にあるときは、本当に問題があるように感じるわけです。それ以外でも、ひどく忙しくて心に余裕がなかったり、疲れていたりすると、思考内容が非常にネガティブになるものです。それも、疲れが取れて気分が回復したあと、あーやっぱり疲れていたんだなと分かるわけです。気分によって思考内容も変わってしまうのです。
そして、気分なる物は体調に大いに影響されるわけです。例えば、前述した月経によるホルモン変化、疲労、睡眠不足、あるいは高熱や痛みなど身体的異常によって、気分はあがったり下がったりします。それを図に表すと図1の様な関係があるわけです。そういった人間の体の性能、限界を分かっていれば、簡単に思考内容に振り回されることなく、「今日はどうも悪い考えばかり出てくるから調子が悪いらしい。早めに寝てしっかり体を休めよう」という配慮ができるわけです。現実的で深刻な問題でなければ、よく寝て体調がよくなると、次の日には気分が変わって「あー、あのときは何であんなことを考えていたのだろう。よほど疲れていたんだな。まーこんなこと考えてもしょうがないからまあ、様子を見よう」という変化が起こるわけです。それと忘れてはいけないのは、体調の前には、環境があることです。天気が悪いだけで憂鬱になり、からっと晴れると何かしら気分が浮かれたりします、もちろん人によって雨の方が好きという人もいますが。天気、季節、気圧、気温、湿度などなど、自分ではどうしようもないこと、なかなかそれが自分の内部にまで影響しているとは思えないことも思考には影響しているのです。
あまりにも思考重視の風潮があるので、「思考ははかない物、簡単に移ろいゆく物、気分−体調−環境などに簡単に影響されるもの」であることを知ってもらいたいです。そして、自分が自分で確信を持って築き上げてしまった堅い思考内容も、それほど強固な物ではなく、客観的に見直してみる価値があるし、やりよ うによっては変えていけることを理解しましょう。
これまで書いたことは、病的ではない場合についてです。これが思考障害、気分障害、情動障害など、症状という話になるともうちょっと話は複雑になりますが、その場合、より慎重で持続的な工夫が必要だというだけで、基本は同じです。しかし、症状が自分を振り回す力が強いので、薬の力を借りることや、きめ細かな対策が必要になります。それでも「思考は変容」できることを信じることが大切だと思います。次に疾患と思考について解説します。
こころとからだ(1)−頼りない思考
私達は自分の頭の中に浮かんだことは自分で考えたことだと無条件に信じる傾向があります。
良くない考えが浮かぶと、自分が怖くなることがあります。また、苛立ちや、怒りを感じると、そこ感情に突き動かされて行動してしまうことがあります。後で、冷静になると何であんなことを言ってしまった/やってしまったのだろうと後悔することは良くあります。
実は自分の頭に浮かんだことは意識的思考とは別の「ある種の反応」である場合があります。卑近な例で言えば、おなかがすいているだけでイライラして怒りっぽくなり、お腹が満たされると寛大になるものです。心の余裕は身体の余裕に支えられている訳です。
思考など身体の前には全く無力だという例として、「痛み」があります。不意に何かにぶつかって強い痛みを感じると、それまで考えていた事、話していた事など、一瞬、消し飛んで状況によっては、パニック、不安、恐怖、怒りなどの感情が沸き上がり、全く別の考えが始まる場合もあります。思考は身体より下位に位置するわけです。
また思考は情動よりも下位と言える現象があります。私達は自分がある状況が苦手だから不安や緊張を感じてを感じて、どきどきしたり手が震えたりするのだと感じています。しかし、それは錯覚であり、正確な事実ではありません。例えば、βブロッカーという薬(交感神経の興奮を抑える=心臓の過剰活動を静める)を飲んで(よく効くと)ドキドキしなくなり、声が上ずったり、手が震えたりしなくなり、その結果、あまり不安にならず、冷静に行動出来ることがあります。同様に、抗不安薬をあらかじめ飲んでおくと、落ち着いて行動出来ます。
つまり、「その場所が苦手だ」という思考は、動悸という身体反応や不安緊張という情動(注:情動は身体反応も含む現象です)の程度により容易に変化してしまうと言えます。「この状況はどうしようもない」という強い信念にだまされてはいけません。正確には「私は、この状況で起こる身体反応には耐え難い」ということでしょう。ただし、状況によっては、その反応が起こるのが自然というものもあります。例えば、命が危ないというときに呑気にしていたら本当に死んでしまいます。
私が言いたいのは、本来それほど感じなくても良いことを感じるた時、思考はそれにだまされて、それが本当に危険な状態だと信じてしまう危うさがあるということです。
次に、私たちの思考がだまされやすい場面を考えてみましょう。
2006年09月05日
バイオフィードバック(BF)(2)−皮膚温のフィードバック
バイオフィードバックは、微細な生体反応を機械を介して、一端外にひっぱりだし、人間にとって一番わかりやすい、視覚情報や聴覚情報に変換して、もう一度人体に返します。本来は、そんなことをしなくても、無意識に自分の体内でバランスを取っているわけです。自然界に存在するものは自然に調和が取れていて、ひとたびずれても、自然に揺れ戻しが起こり、一定の状態を保とうとします。地球規模で言えば、地球温暖化とか言っていますが、それも人間の都合で考えれば大問題ですが、地球の立場からすれば、人間が無茶したことの帳尻を合わせるためにやっていることでしょう。最終的には、「いい加減にしろ」と人間を排除仕様とするかもしれません。話が大きくそれましたが、バランスを取るというのは、人の都合とは全く別次元の減少だということです。人間が病気になるのも、自然界の摂理から言えば、時々なってくれないと困るのでしょうし、病気になって動けなくなるのも、生体が回復するために必要なプロセスなのでしょう。
しかし、人間界ではそうはいきません。何がどうなろうと、いつも同じように仕事や勉強や家事をこなさないといけません。適当に手を抜いたり、休んだり出来る人は、より自然の摂理にそぐっているわけです。しかし、思考優先の人は、体の事情より自分の目標、家族の事情、世間体、競争などなど、自然に反した人間界の事情で行動を続けます。そして、それが滞ると病気になったと感じるのです。
しかし、体の方から見ると、ブレーキをかけて、自分を守ろうとしているのかもしれません。大きな症状でもないと、立ち止まってくれませんから。発熱、痛み、あるいは他の身体症状、内科疾患だと、さすがに人はあきらめて、休もうとしますが、検査に異常がでにくい精神疾患や自律神経失調症状ではなかなか人は休んでくれません。あるいは、その人は休みたくても、周りが休ませてくれません。
そういった、自然に反した異常な生活習慣が普通になってしまっている現代人は、適度なフィードバック機構が麻痺してしまっています。自分の体からのSOSを察知するのがものすごく下手になっているのです。ですから、前述したように、理解しやすい情報に変換し、あるいは異常なんだと分かる形にして、それを修正する練習が必要になります。
とかく理屈っぽい現代人には良い方法です。特に、瞑想とか自律訓練法とかなどのような抽象的で、うまくいっているのかどうかわかりにくい方法が苦手な人には、価値のある方法です。自律訓練と組み合わせて、うまくいっているのかどうかを実感しながら行うのも有効でしょう。
一番簡単なBFを紹介します。ストレスチェッカーなるカードを見たことはあるでしょうか。指を当てると色が変わるというものです。人は緊張すると末梢血管が収縮するので、皮膚温が低下します。それを逆利用したのが自律訓練法の温感練習で、手が温かいとイメージすることによってリラックスを誘導します。
感覚だけでなく、実際に皮膚温が上昇するとか、ストレスチェックカードの色が変わると、リラックスがうまくいっていることがより良く分かりますね。
通常BF装置は高価なものが多いですが、温度計なら安く手に入ります。当院では、デジタル温度計を利用し、センサーを指先に固定して、自律訓練を初め、温度が上がる工夫を自分なりにする練習をしてもらっています。初めは何も分からない場合が多いですが、実際に温度が変化することが分かると、「呼吸をどうするか、気持ちをどうするか、イメージをどうするか」など自分なりに試してみて、より温度が上がる方法を見つけていきます。今まで全くリラックスという感覚が分からなかった人が、「どうすれば温度があがるか分かった。これがリラックスというものなのかな」と言うようになります。そうなればしめたもの。それをより深めていけばよいわけです。
一日に数回、本の少しの時間でよいので、やってみるとよいでしょう。デジタル温度計は小さいので持ち運びも楽です。温度が上がるかどうかも大事ですが、一日に数回、自分の体を見つめる、自分の体を5分でもいたわる習慣をつけることに、より大きな意味があると思っています。
温度センサーよりもっと簡便な方法に。BioSquareというシールをつかってものがあります。これは皮膚温によって色が変わるので、手に貼っておくと、今自分がリラックスした状態にあるかどうか、あるいは、「今、緊張している」ということがリアルタイムにわかるため、自分自身のモニターとして役立ちます
2006年07月10日
バイオフィードバック(BF)(1)−今なぜBFか
自分でできるリラクゼーションとして有名なのは、自律訓練法です。そのほかにも、呼吸法、瞑想法、漸進的筋弛緩法、イメージトレーニングなどがあります。共通しているのは、指導する側が、ある決まった教示をして、それに従って反復練習をするという点です。そのため、本人の理解力や、心身相関の理解や指示通りにすることが好きかどうかなどが効果に大きく影響します。
また、最終的には自己トレーニングを目指しますが、最初の段階では、指導する側が教示をします。ですから、自律訓練法や、イメージトレーニングでは他者催眠のような感じにならざるを得ません。そこから自己催眠に移行できる人は、ある程度、自己制御力の高い人です。中には、自律訓練の教示をしている最中に、催眠状態に陥ってしまう人もいます。被暗示性(暗示にかかりやすさ)が高かったり、自己制御力が低い人は、そういった他者催眠レベルから抜け出せず、教示をしてもらえばできるが、自分ではなかなかできないということになります。
自己コントロールによるリラクゼーション法として、バイオフィードバック(以下BF)という方法があります。方法自体は決して新しい物ではなく、心身医学の中では代表的治療法としてあげられています。BFとは、何をすることなのでしょうか。何かしら機械的な印象を受けますよね。じつは理論としては非常に単純なものです。人間の生体情報(バイオ)を何らかの機械を介して、視覚、聴覚など、理解しやすい形に変換して、本人に返す(フィードバック)という方法です。例えば、筋肉に電極をはって、筋電図を測定し、それをパソコン画面で筋電位の高さとして示すか、筋電位を音に変換して、電位の高さを目に見える形、あるいは聞こえる形にして本人に提示するわけです。「あなたはリラックスしていますか」と聞かれても「たぶん」とか曖昧にしか答えられないでしょう、また、「できるだけリラックスしてください」と言われても、自分がどうなっているのかわからないので、とまどいます。「緊張−リラックス」の程度は、筋緊張の強さを相関しますから、筋電位を示されれば、自分が自覚できても出来なくても、示された現実を認めるしかありません。「そんなはずはない、自分はリラックスしている」と言い張ったとて、「筋肉はそうなっていませんよ」と示されるわけです。
曖昧な生体情報を客観的に理解しやすい形に変換して本人に提示し、提示された本人は、何かしら工夫して、その数値、画像、あるいは音を調整していく方法をBFをいいます。そうこう工夫している内に、本人は知らぬ間に、何らかのリラックス法を自分なりに体得していくというやりかたです。参考までにいくつかのリラックス法を提示したとしても、基本的には、本人の工夫が中心になります。そこが、前述した他のリラクゼーション法とは全く違う点です。本人はどういう方法をとってもよいということと、本人の中で可能な方法を使うことになります。ということは、自然にその人にとって得意な、あるいは、その人に向いている方法を無意識に選択すると言えます。
そのため、教示通りにするとか、上手にしなくてはいけないというプレッシャーが無くなり、むしろ、自分自身へのチャレンジ、冒険的ニュアンスを帯びてきます。指導する側は、本人の努力、工夫を十分評価し、ほんの少しの成果をともに喜ぶことで、本人のモチベーションがさらに上がることになります。たとえ、うまくいかなくても、それは良い方法がまだ見つからないだけであって、自分が下手だとかダメだとかいう話にはなりません。心身相関現象が理解しにくい方、教示されればできるが、自分でやろうとしてもうまくいかないかた、暗示性が強い方など、通常のリラクゼーション法に向かない人に是非お勧めしたい方法です。BF中に行うことは、自分の中で工夫したことなので、自分に無理がないわけです。何も起こらないということはあっても、何かが起こりすぎるということや、暗示にかかりすぎるというようなことはまず起こらないので安全性も高いと思います。
日本ではあまり盛んではありませんが、アメリカ人の性格ゆえでしょうか、アメリカには優れたBFの機械がたくさん存在します。また、ゲームのソフトウエアのように、本人のモチベーションが上がりやすいように、楽しんでできるように、すばらしい工夫がなされています。
どのような生体情報をフィードバックするかといえば、まず簡単に測定できるもので、リラクゼーションに深く関わっている情報が望ましいです。現在使われているのは、皮膚温、皮膚電気抵抗、筋電位、心拍変動、呼吸、脳波です。
次に、それぞれの方法について具体的にご説明します。
2006年06月15日
ストレスへの対処(4)-様々な治療の効用-
物理的な危険のような、単純なストレスに対しては、考えなしに反射的に回避、対処するのが理にかなっています。しかし、複雑なストレスに対して、同じような対処をしてしまうと、問題がこじれることがあります。前項で、「しばし様子をみること」が大切だと書きました。ほんの一瞬でも、間を開け、反射的に行動しないことで、より適切な行動を取ることができ、それが次の流れにつながっていくのです。反射的に行動してしまう原動力は、危機回避です。つまり、不安や恐れを察知した瞬間に対処行動をとるわけです。
石が飛んできた→よけた、これには何の問題もないでしょう。考えていたら怪我をします。しかし、誰かの言葉や態度に不安や恐れ(意識に上らない場合もありますが)を感じた→逃げ出した、怖くて何もいえなくなった、反論した、けんか腰になった、殴りかかったなどという行動に反射的にでてしまったら、人間関係はそれ以上発展しません。もちろん、場合によってはさっさと逃げたり、関わらない方がよい関係もありますが、ここでは本来避けない方がよい関係を前提に話をします。
瞬間の行動の裏には、「事態の認知→情動反応→行動」という段階があり、いきなり行動になるわけではないです。問題は「事態の認識」「情動反応」という部分です。もともとの性質、感受性や、過去の経験、学習によって、あるいは何らかの疾患によって、その認知や反応は、個々人で大きく違ってきます。物事に動じないとか気が小さいとかいっても、たいていは、持って生まれた性質や本人がどうにもできない年齢での経験によって、そういうパターンが形成されるので、何も堂々としていることを自慢したり、気が小さいことを卑下するのはナンセンスです。努力してそうなったわけでもないし、努力が足りなくてそうなったわけでもないのです。気がついたら、たまたまそうだったにすぎません。ですから、性質や性格を巡って優劣をつけるようなやりとりをするのは、神をも恐れぬ暴挙といえます。
話がそれました。本題にはいります。前項で書いたように、薬物療法、心理療法、リラクゼーションなど各治療は何をしているかというと、「事態の認知」「情動反応」という部分にフィルターをかけて、少しは冷静に対処しやすいように手助けしているわけです。抗精神病薬やSSRIなどにより、過敏な感じ方や考え方にブレーキがかかります。まだ抗不安薬は情動反応、特に不安、恐怖反応を緩やかにしてくれます。抗うつ剤や気分調整剤のように気分を安定させることで、事態への反応の仕方が緩やかになります。大雑把にいえば「心に余裕を持たせる」ことに役立ちます。その少しの余裕により、現実把握がより客観的になり、ストレスを回避するよりよい方法を考え、行動しやすくなるわけです。薬はフィルター、ブレーキ的役割なので、それだけでは問題は解決しません。薬により冷静になり、よりよい経験をしやすくなり、自己成長が促進されるということです。たとえれば、浮き輪に捕まっていても泳げるようにはなりませんが、浮き輪に捕まることで水を恐れず、楽しめるようになり、その経験によって、自分の力で泳ぐ力を身につけることができるというのと同じです。
それでは心理療法はどうでしょう。心理療法というと、心の闇をさぐって、原因を探し、心を深い苦しみからすくってやることで問題が解決するというようなイメージがあります。しかし、それは心理療法全体からいえば、極一部の働きでしょう。もっと大切なことは、治療関係、信頼関係なのです。自分の事を深い部分まで話すようなことは日常にはありません。特に話しにくい内容であればなおさらです。心理療法では話すことで信頼が深まり、信頼により、さらに話せるというサイクルを繰り返します。「自分一人ではない、一緒に考えてくれる人がいる」という思いや、「この前、こんなことを話したな、この場合は~という方法もあるのではと先生は言っていたっけ」という考えが、心にワンクッションを形成するわけです。そのワンクッション、ほんの少しの余裕により、新たな体験の可能性が広がるわけです。また、薬物療法とちがって、具体的に何にどう対処するのかという話合いができることも大きなメリットです。
リラクゼーションはどうでしょう。「リラックスして健康になろう」「リラックスは自律神経や免疫に効果があるんだよ」などという話は表層的なものです。もっと大切なことは、リラックスの練習により、心の揺れに対応する力がつくことです。それにより、10秒後の世界に到達しやすくなるわけです。
ストレスに直面し、心が動揺したときに、心の動揺をほんの少しの間、なだめてあげることができたら、そして、ほんの一瞬、事態を冷静に見渡すことができたら、これまでの反射的な行動により作られた世界から、一歩踏み出し、新しい世界を経験できるでしょう。そんなイメージを持ちながら、薬を上手に利用し、リラクゼーション法を身につけてください。
2006年05月31日
ストレスへの対応(3)−10秒後の世界
ストレス状況に陥ると、通常は無意識に回避行動プログラムが発動します。そのプログラムは、それまでの経験の中で培われたものです。幼い子供はレパートリーが少ないので、それが不適切な方法であっても繰り返してしまいます。何度親にしかられても、ぐずったり、泣いたり、逃げ出したりと、さんざん周りを困らせます。それでも、少しづつ経験を積んで、より適切な対処ができるようになるものです。自己努力でできるようになることもあるでしょうが、通常は大人の根気のある手助けが必要です。大人は、単に方法を教えるのではなく、その子が外の方法を見つけるまで、付き合ってくれるのです。そして、別の方法の方が見つかると、そてまでとは違った世界に踏み出すことができます。
この際、関わった大人は何をしてくれたのでしょうか?行為としては、何もしてくれていません。見守るとは一体何をすることなのでしょうか?大人がいなければ、パニックになり経験はそこで止まってしまいます。信頼できる大人がいたからこそ、パニックを回避し、未知の世界に一歩踏み出せたわけです。未知なる体験は不安や恐怖をかりたてます。それを乗り越えるのは、その中に踏み入るしか方法はありません。水が怖くて、プールに入れない子供は、思い切ってプールに入ることでしか、水への恐怖を克服できません。恐怖を感じながら、行動する時、子供の心に何が起こるでしょう。「溺れそうになったら、親が助けてくれる」その思いが、自分の感情を支え、パニックにならずにすむのです。大人の存在は、感情の揺れを少なくするのに役立ったわけです。
つまり、感情の揺れを少なくし、パニックに陥らないようにすれば、未知なる経験につながっていき、それまで続けてきた自分のパターンをバージョンアップできるわけです。この感情コントロールを失敗すると,(例えば、近くに適切なサポーターがいなかったために、強引なやり方、不適切なやり方を身につけてしまう)と後々、様々な問題につながって行くのですがき、それについては、別の項で取り上げることにします。
前置きが長くなりましたが、何が言いたいかというと、自分のお決まりのやり方で対処しきれず、動揺してパニックになりそうな時、感情を静めることができれば、活路が見いだせるということです。通常は、感情は反射的に起こるので、危険を察知すれば、すぐに回避しようとします。物理的な危険の場合は、それでよいでしょう。もう少し複雑なストレスの場合は、それをしてしまうと解決にならないことが多いです。
別の解決法を試すには、少しでも感情の揺れを少なくする必要があります。子供が大人を無意識に頼って、気持ちを制御するように、大人でも一瞬何かを信じて冷静さを保つことが大切です。「自分を信じる」という言葉をよく耳にしますが、「言うは易し、行うは難し」で、それは一番高度な技です。それができるために並々ならぬ努力と経験が必要でしょう。最終的に「自分を信じること」で自分を支えられるようになるために、いろいろな人や物に助けられながら経験を積んでいくわけです。
完全に制御することは難しくても、少し間を持たせることで、チャンスを広げることは可能です。例えば、10秒間混乱せずに、感情を高ぶらせずに、あるいはキレずにいたら、すぐにパニックになっていた時には体験出来なかった世界を体験することができます。水に触れるだけで、「ギャー」となって、水から逃げ出していたら、それ以上何も経験できませんが、怖い怖い水の中に10秒入っていられたら、「あれ?言うほど怖くないじゃん」と思えるかもしれません。「10秒後の世界」という未知なる世界を体験できるのです。(ただし、10秒混乱せずにいることは、目をつぶって息を止めて、10秒我慢することではありません。あくまでも怖さに飲み込まれずに、10秒だけ冷静に様子を見てみることです)。
たとえ10秒でも、冷静さが維持できれば、可能性が大きく広がります。その10秒間を獲得するための方法が、様々な治療技法なのです。「薬物療法」「精神療法」「リラクゼーション法」など、すべて感情の揺れを少なくし、自分がより良く生きられるやり方を開発するために行うのです。次に、それらの治療がどのように作用して、そうなるのかを具体的に説明します。
2006年05月20日
バタフライ効果
決定論的な法則でも,初期条件の僅(わず)かな差が挙動の大きな違いを生み,その予測が困難化する現象。気象学者のローレンツ(Edward N. Lorenz)が 1963 年の論文で示した考え方。後に発達したカオス理論において,これを端的に説明する効果として命名・引用されている。バタフライ-エフェクト。三省堂提供「デイリー 新語辞典」より
私たちは物事には因果関係があると、何の根拠もなく信じています。ですから、問題を解決するために、あるいは自分の理想に到達するために、自分が信じた行動を続けます。それを行えば、きっと、描いた目標に近づけると信じて。
こういった原因−結果、努力−成果という関係は、限定された場面では正しいでしょう。「明日、英単語の試験がある。」という場合、今日、単語の勉強をすれば、明日、よい点を取れるでしょう。学生時代の勉強は、それの典型的なケースです。運動も芸術も、ある程度のレベルまでは、努力が成果に結びつくことでしょう。高校くらいまでは、そういった因果関係が成立しやすいでしょうが、社会人になるとそうは行かなくなります。社会構造は複雑で、関わる人間関係もどんどん複雑化します。その中では、1+1=2にならない、一つの原因→一つの結果になりにくくなります。それでも、人は、自分を取り巻く状況の中に、何らかの因果関係を必死で維持し、「AをしていればBになる」、「CになるためにはDをすればよい」という幻想の世界を生きています。
しかし、何らかのきっかけで、この幻想が壊れたとき、初めは、修復プログラムを発動させて、必死でほころびを修正しようとします。しかし、それがいつまで続くかわからない、先が見えない気持ちに陥ったり、自分の判断に疑惑を抱くようになったり、どれだけ努力しても自分の得たい結果を得られなくなったとき、不安反応、抑うつ反応など、病的パターンに陥ってしまいます。そうなると、「どうしてよいのかわからない」というそれまで体験したことのない心細い心境になり、まとまりのない行動、思いつきの努力などをすることでさらに問題をこじらせてしまいます。
人が因果関係を理解できる範囲は、せいぜい高校までの教科書にそった勉強、運動や芸術における基礎トレーニングなど、子供の世界までの話です。つまり、大人が青写真を書いて、大人に守られた範囲の中でかろうじて起こる現象であるということです。物理学的にいえば、「閉じた系」の中においてのみ起こる現象であると言うことです。我々は、子供の時から、その範囲内での基礎トレーニングを反復練習させられて成長するわけです。そして、青年期以降、その狭い反復練習の世界から、広い世界に踏み出していきます。そこからが、真の力を試される段階に突入し、挫折と再生を繰り返しながら、広い世界の中での生き方を身につけていきます。
もはやこの段階では、「こうすればこうなる」という図式はありません。何をしても思うような結果にならない事の方が多いでしょう。その時、自分がもはや「守られた世界」から「切り開く世界」に踏み出していることに自覚がないと、不安や不満に満ちあふれていってしまいます。「なんで思うようにいかないのか」という思いにがんじがらめになり、それでも「何か解決方法があるはずだ」と何かにしがみつき、泥沼化していくことになりかねません。
ここで原点に立ち返ってほしいと思います。「自然界は思うような結果は起こりにくい場所」、反対に「自然界は思いもよらない結果が生み出される場所」であるということを思い返してほしいと思います。冒頭に書いた「バタフライ効果」=「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」というやつです。ちょっと前にはやったカオス理論、フラクタル理論、自己組織化理論という古典的な因果律を乗り越える、新たなパラダイムとして提唱された自然観です。「風がふけば桶屋が儲かる」とはちょっと違って、自然界の現象は、ある些細な初期条件が、思いも寄らない結果を導き出す。その因果関係は人には予測できないというものです。
何かを解決したいとき、特に困難なことであると、より精密な計画をたてて、間違いのない行動をとるべきだと思いがちです。計算通りに行かない典型例は病気の治療です。特にメンタルな問題は、計画的な治療が極めて困難です。そうすると、焦る気持ちが、根本的な解決、一番正しい方法を強く求めてしまいます。そういった、方法はなかなか無いものですし、それが大切なことだという保証はどこにもありません。根本的な解決法を求めて、1年間さまようよりは、今すぐできる自分のためになること(例えば規則正しい生活をすること、よく眠ること、あれこれ考えすぎず、普通に一日過ごすこと)を続けることの方が大切だと言えないでしょうか。少なくとも、普通に一日過ごすことの価値は、何もせず難しいことを考え込んでいることより価値がないとは言えません。些細なことを馬鹿にしないほうがよいです。一見些細に見えること、一見意味が無いように見えることが、大いなる変化に結びつくことがあるのです。
学生時代までにすり込まれた、一見意味のある行為に戸惑わされることなく、意味がないように見える普通の生活を大事にしてほしいものです。今すぐできることを大事にしましょう。その積み重ねは、予想外の成果(自分の理想とはかけ離れた物かもしれませんが)をうみだすことを信じて。
2006年05月18日
ストレスへの対応(2) -待つことの大切さ-

慢性ストレスの対処は、急性ストレスに比べて複雑です。物理的なストレス、アクシデントといえる出来事は、その場をしのげば、自然に落ち着いていくものです。それに対して、人間関係が絡んでくる問題は、慢性ストレスになりやすいです。というのは、関わっている要因が多いことや、要因自体の解釈が単純には行かないからです。
例えば、人の言葉や態度がストレスになることがあります。そのストレス状況で人はどう反応するでしょうか。
1.その人に会わないようにする。無視する。
2.その人を怒らせないようにする、ご機嫌を取る。
3.その人に不満をぶつけて、相手の言動を改めさせる。
4.どうすることもできずに、緊張して過ごす。
5.その関係に耐えられず、具合が悪くなる。症状がでる。
6.自分の気持ちを伝えて、何が問題なのかを話し合おうとする。
ざっと考えても、以上のようなパターンが想像できます。どれが正しいかという事より、人は持って生まれた性質と、その後の人生経験により、その時点に身についている反応パターンを、無意識に繰り返します。自分は自分の体験しかわからないわけですから、疑いもなくそれを繰り返します。それ以外の方法は、よほどの体験をしない限り模索することはありません。
一歩間違うと、「いつも自分は〜だ、そういう星の下に生まれてきたんだ。それが自分の運命なんだ。」と思ってしまうこともあります。
1〜6のパターンは、一見違うやり方、違う反応の仕方に見えますが、共通点があります。「どれも相手を過剰に意識している」ということです。相手との関係を自分のやり方で何とかしなくてはいけないと思っているわけです。「会わない、無視する」というのは、一見意識していないように見えますが、意識しているから避けたり、無視したりしなければならないわけです。
それでは過剰に意識していない状態とはどういうことでしょうか。それは、
7.どうこうしようとせず、普通に過ごす。
ということですね。つまり、その人との関係を特別視せず、過剰にとらわれずに生活していけば、そのうち、それなりの形に治まっていくということです。こうなってほしい、こうあるはずだという思いを消せば、それはそれでしょうがないという形に治まっていくでしょう。
しかし、現実にはそうはいきません。その人が「特別な人であることが多いからです」。親、兄弟、配偶者、先輩、上司、取引先の人などなど、利害関係が大いにあるからこそ、過剰に気になるわけです。さすがに、道ですれ違っただけの人に、そこまで過敏になる人もいないでしょう。そこまで掘り下げると、話がややこしくなるので、ここではそういった複雑な問題はふれません。特別な関係上の問題ではなく、一般的問題への対処について考えてみます。
誰しも、嫌な思いはしたくないので、できるだけトラブルは避けたいものです。ただ、避けようとする方法を間違えると、さらに問題をこじらせてしまいます。こじらせないために何が重要か・・それは、「事態を見極める」ことです。そのために最も大切なことは事態を見極めるための「時間」、しかも冷静で中立的な時間です。つまり、「待つ」ことです。最悪だと思ったことが、1日待ってみたら自然に解決していた、あるいは別に最悪ではなかったということ経験したことがあるのではないでしょうか。
自分にとって衝撃が大きいほど、冷静な判断力を失い、結果を急いで求めるとか、早く事態を解決しようとしてしまいます。ひとたび、冷静でない対処をに踏み出すと、後は自動的にそのサイクルに陥っていきます。そして、それしか方法はないかのような錯覚に陥ります。そのやり方がうまくいかないと、どうしようもない気持ちになってしまします。気づいたときは、原因と結果が交錯して、何が何だかわからない状態にはまってしまいます。
大きな問題に直面した時こそ、緊急事態であるときこそ、一呼吸置いて、「時間を待つ」こと、そして、冷静で中立的な観察をすることが必要なのです。とはいえ、それこそが難しいことであり、それができるようになるためにカウンセリングやリラクゼーション技法などに我々は日々取り組んでいるわけです。
「待つ」ことと心理療法、リラクゼーション技法とはどういう関係があるのか、次にそれについて述べます。
2006年05月10日
ストレスへの対応(1) -ストレスの種類-
ストレスの定義はいろいろありますが、大雑把に言って、自分にとってよからぬ出来事といえます。「自分にとって」というところが重要で、極めて主観的なものです。それは特に精神的ストレスに当てはまることであり、身体的ストレスにはそれほど個人差はありません。身に降りかかる物理的危険、痛みなどは誰にとっても文句なくストレスです。それに比べて、テストの点数が悪かったことはどの程度のストレスかと言えば、人によって大きなばらつきがあることでしょう。ストレスは回避するか対処しないと身が持ちません。人は、それぞれ自分なりのやり方で、ストレスに対処したり、回避しながら生きています。それは通常、習慣化された自分なりの方法でなされるため、改めて語られることはありません。何の苦もなく生きている、要領よく生きている、脳天気に生きている、そういう風に見える人も、実は、その人なりの対処をしている結果です。もともと感受性が違うので、鈍感な人は生まれつきストレス耐性が強いうらやましい人に見えますが、危なかしい面もあります。君子危うきに近寄らずという言葉があるように、感受性が強く注意深い人は、危険を自覚しつつそれに近づかないわけです。単に鈍感な人は、危険を察知できず危ういことをしてしまいます。普通の子供は、無鉄砲で大人にはとてもまねできないような危険なことをしでかします。それは子供に勇気があるとか、ストレス耐性が強いとかではなくて、子供はまだ何もわかっていないから、思慮深くないからできてしまうのです。子供は大人に守られているので、多少間抜けな面があっても、大人が回避、対処してくれます。しかし、その傾向が大人になっても続いていれば大変な事になるでしょう。事故や怪我が多くなったり、さまざまはトラブルに巻き込まれやすくなります。
人はこの世に生まれた瞬間から、ストレスに満ちあふれた環境に放り出されます。赤ちゃんのうちは、ストレスが回避できるかどうかは完全に周りの大人の手にかかっています。そこをくぐり抜け、自分で動けるようになり、自分の判断で行動するようになると、さらに複雑なストレス状況に遭遇することになります。年齢相応の適度なストレスを適切な方法で対処・回避することを学習できるかどうかが、その後の人生に大きく影響します。普段は対処しやすいストレスで基礎練習を繰り返し、時に存在を揺るがすような大きなストレスに対峙し、それまでの基礎練習で身につけた方法に応用を利かせ、その困難と乗り越えたことで一回り成長する・・・その繰り返しが人生そのものです。(ただし、生まれつき、感受性に障害がある子の場合は、普通の考え方は当てはまりません。ここでは、一般論として話を進めます)
保護されるべき時に保護されなかったり、年齢不相応の、あるいはその子の能力に不相応のストレスにさらされることが多いと、間違った対処法を身につけることになります。間違った対処とは、弱すぎる反応か強すぎる反応、つまり無視か病的反応です。危険が迫っているのに、何事も無いようにふるまったり、自分の問題ではないことにしてしまったり、逆に過剰に反応して、怒ったり、泣き出したり、身体症状に転化してしまい、結果として周りが対処するしかない状況になってしまったりすることです。そうなると、「たまたまうまくいった=運がよい」か「私には良くないことが多い=運が悪い」という印象が強くなり、ますます対処能力は低下していくことでしょう。自身の「困難に対する対処能力」への信頼感は自己効力感(=なんとかなる感)といって、人を支える大きな力になります。もちろん、対処能力の中には、自分の力だけではなく、人の力を借りる能力も含まれますし、生きていく上ではそちらのほうが重要かもしれません。
具体的にはストレスにどう対処すればよいのでしょうか。それを考えてみましょう。ストレスにはいろいろな種類のものがありますが、急性ストレスと慢性ストレスに分けて考えてみましょう。
急性ストレスとは、突然脈絡無く起こって、それを瞬間的に回避・対処すれば終わっていく物です。例えば、「歩いていたら、何かに躓いた」としましょう。身が軽い人は、ひらりと交わして転ばない、その次は、転ぶが大けがはしない、次は大けがをする、など、人によって回避する力は様々です。怪我をした後も、自分で消毒してバンドエイドを張って終わりの人、泣きながら保健室に行く人、その場で誰かが助けに来てくれるまで泣き続ける人など対処能力も様々です。こういった、急性ストレスには即座の対応力、回避力など、早くて巧みな能力が役に立ちます。そして、それは回避・対処すれば、何事も無かったように終わっていくストレスです。
それに比べて慢性ストレスを考えてみましょう。急性のストレスは、自分の力だけで対処・回避しやすいのに対して、慢性ストレス、いろいろな複線の中でじわじわと起こり、自分の力だけではどうにもならない、人間関係が絡んでくるような問題に代表されます。(疾患でも、不治の病、進行性の病の場合、慢性ストレスと言えますが、ここでは人間関係のストレスと中心に考えます)。そういうストレスは、ひらりと交わし、ささっと対処し、何事もなかったように終わるものではありません。こういったストレスに対しては、状況分析力、感情制御力、決断力、行動力など高度な人間の機能が必要になります。急性ストレスの回避は動物的で、慢性ストレスの回避は人間的と言えるでしょう。社会とか調和とかいう観念があるからこそ起こるストレスです。動物なら縄張りに入ってきた外的は蹴散らせば良いだけですから。
現代社会はスピードと効率を重視します。そういった能力は、急性ストレスを回避・対処するには向いていますが、慢性ストレスへの対処には不向きどころかマイナスになります。次の項では、それについて詳しく述べます

