2007年06月
2007年06月18日
リラクゼーション(4)−何もしないこと
リラクゼーションの本質は生命としてニュートラルな状態になることである。
しかし、前述したように、私たちは他人が勝手に規定した意味・情報にがんじがらめになって生きている。社会的に規定された時間の流れ、行動に駆り立てられ、ほとんどの人が同じような流れの中で生きている。そして、その流れに合わせることが、何よりも大事なことであると思いこみ、それに合わせられないと不安や焦りを感じるわけだ。そして、それが大きなストレスと感じる。
自分が思うようにならないこともストレスだが、自分の周りの人間が思うようにしようとするのに巻き込まれ不本意なことをせざるを得ないのはもっとストレスだ。ストレスにがんじがらめになっている時は、そのしがらみから抜け出せればストレスから解放されると思うのだが、そこから抜け出したとしても次なるストレスが待っているだけだ。
そうは言っても、人間の性。思考力、想像力が発達したことの代償として、何かをコントロールしていないと不安でしょうがない。内的安定性が保てないわけだ。今の文化は人をがんじがらめにしていると冒頭で述べたが、何も無駄なことをしてきたわけではなく、安定を求めて発展させてきた結果が、行き過ぎてしまって、あるいは偏りすぎてしまって、バランスがとれなくなったということだ。過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったものである。
人が一番安定するのは、自分にとってちょうどよい内容、ちょうどよいペースで時間が過ぎていき、「何となく一日が終わり、眠りにつき、起きたときは疲れがとれていて、また次の日の営みが始まる。しかも、今日もがんばろう、きっと何とかなるさ」という具合に生活が流れていくときだ。時に忙しいときがあっても、みんなで力を合わせて、大変な時を乗り切れば、またきっと平和が訪れるというイメージをもって過ごせている時だ。ちょうど昭和三十年代の後半から四十年代の半ばくらいまでの日本の平均的生活がそんな感じではなかっただろうか。その頃自分は子供だったので、そう感じるだけかもしれない。その時の大人はそんなことをいうと怒られるかもしれないが、なんかそういう気がする。
ちょうどいいペースで生きているとき、あるいはより自然に近い状態で生きているとき、きっと時間や空間には隙間があって、その隙間の時間は、「何もしない」ということが自然にできていたのだと思う。その瞬間は、過去のことも未来のことも忘れて、今この瞬間ほっと一息つく。ほっと一息だけがすべてになる瞬間、それがリラクゼーションの本質ではないかと思う。
忙しいさなかに、ふと外に目をやると、鳥の声が聞こえる、青空が見える、流れる雲が見える、蝉の声が聞こえる、蛙の声が聞こえる、昼を告げるサイレンがなる、仕事の終わりを告げるサイレンがなる、茶の間から笑い声が聞こえる、木々は茂っている、外では小汚い子供たちが戯れている・・・・そんな風景に思わず気持ちが引っ張られ、その瞬間、忙しさも、焦りも、気になっていたことも、思わず忘れて時の流れに身を任せている自分・・・はっと我に返り、さあ、もう一仕事、もう一頑張りしようと自然に思えるような瞬間・・・それをリラクゼーションというのではないか。
私がいう「何もしないこと」というのはそういう時間と空間の感じ方のことだ。我慢して何もしないとか、がんばって何もしないということではない。そして、そのような状態のことを自律訓練では受動的集中とよび、もっとも本質的な課題とされているのだ。その瞬間、人はエネルギーの放出からエネルギーの蓄積へと機能が変化すると言われている。
今や、生活の中に、そういう瞬間を体験することは難しい。しかし、他でもふれたように、田舎に行ったとき、旅行に行ってきれいな風景をみたとき、思わずすばらしい絵画をみたり、すてきな音楽が聞こえてきた時に、その瞬間、それを体験することがある。それは自分の経験を振り返ってみると何となくわかるのではないだろうか。
では自然からかけ離れ、忙しいく、やかましく、人の思惑に満ちた情報に絶えずさらされている我々が、日常的にそういう感覚を取り戻すにはどうすればよいのか・・・そこで登場するのが瞑想、自律訓練、バイオフィードバック、ヨガ、気功など、自分の内的感覚に受動的に意識を向ける訓練である。
外の状況がいかに変わろうとも、自分の体は実は自然に満ちている。外には見つけられなくても、自分の中は確実に、今この瞬間も自然の奇跡の集大成が命の時間を刻んでいるわけだ。外の情報に振り回されて、目が向いていないだけだ。また、体に関しても、病気や健康法の情報に汚染されたイメージでしかみることができないので、ありのままの自然体験より、異常はないか、病気ではないか、おかしくないか・・そんなことばかりに注意が向いてしまう。
そこで、冷静さを取り戻し、我々が置かれている状況を理解し、原点に返って、先入観なく自分の体と向き合い、その自然を感じ取る訓練をしてみたらどうだろう。何となくするのは、邪念が出てきて難しいだろうから、自律訓練法、瞑想法、座禅など何でもいい。先人たちが開発した方法を利用して訓練してみよう。病気を治すためではない、リラックスするためでもない、自分という自然に目を向け、喜び感動、謙虚さを取り戻すための訓練だ。それができたとき、体と心は自然にリラックス状態になっているのである。リラックスするのではない。リラックスした状態になっているということなのだ。
そうはいっても、近代思想で汚染され尽くした現代人の頭では、それも難しいだろう。毒をもって毒を制す!科学技術でもってリラックス状態に導入する。そんな逆転の発想がバイオフィードバックだ。それについては別の項でふれたし、クリニックのHPに詳しく書いてあるので参照してほしい。
「何もしない」それほど豊かなことはない。持たざるものはもっとも豊かである。執着を捨てよと言い続けた仏の教えが今身にしみるのだ。
2007年06月05日
自分という乗り物
目の前に車がある。見た目はきれいだ、傷もついていない。タイヤも大丈夫。どこからどうみても、何の問題もない。しかし、いざ乗ってみたら、ブレーキの調節は難しい、ハンドル操作もとても不安定だった。それは乗ってみないとわからないし、外から見ている人には、何がどう難しいかわからない。ひょっとすると、こんないい車を運転できないおまえは、へたくそだ、だめなやつだと思われるかもしれない。その難しさは、一度乗ってみなければ、乗って操縦してみなければ決してわからない。
運転が難しいのに、周りからへたくそだといわれたら、当人も、「あー自分は才能がない、だめなやつだ」と思ってしまうかもしれない。その車以外運転したことがないなら、きっとそう思うだろう。
車は、いざとなれば、買い換えればいい。あるいは、そんな車を売りつけたやつをののしって、新車を持ってこいということもできる。
これが人間だったらどうなるのか。人間機械論ではないが、人間にとって、その生物学的性能は、当人の責任ではなくはじめから与えられたものだ。それを与えられ、そこに心が乗っかり、そういうものだと思って体を運転しながら生きていく。しかも、車と違って、どんなに運転しづらくても買い換えることも、乗り換えることもできない。さらにやっかいなことは、運転しづらさを誰にも体験してもらえない。当人しか決してわからないことなのだ。
外から見たら、どこも悪いようには見えない。全く普通に見える。なのに、何で人と同じようにできないのか、何でそんな無茶なことばかりするのか。ちゃんとやろうという意志がない、わがままだ、おまえがおかしい・・・そんな台詞を聞かされ続けている人はたくさんいる。言っている方は、「苦労は誰にでもある、みながんばって生きているんだ」と自分の体からの経験だけでものを言う。
繰り返しいうが、車と違って、人体の乗り心地は、当人しかわからない。誰も変わって操縦を体験することはできないのだ。
何となくわかってもらえただろうか。人は、唯一無二の自分という体に乗っかって、決して降りたり、乗り換えたりできないプロセスを生きていくしかないのだ。だから、人のことをうかつにいうもんじゃない。どんなに乗り心地が悪いかわからないのだから。見かけがどんなに普通に見えても、ブレーキ操作やハンドル操作がどんなに難しいか、その人しかわからないのだから。
自分が何とかうまく自分を乗りこなしている人は、できない人を批判するのではなく、なかなか性能のよい体をくれた自然界に感謝するべきである。それは誰かが何かを努力知った結果ではなく、いただけたのだから。まして、自分の努力などどこにも関与していないのだから。
人間にとって、ブレーキ操作やハンドル操作に当たるのは、感情や気分のコントロールということを意味する。安全な走行、安全な人生を保証する、もっとも重要な要素だ。ガラスが割れていても、ボディに傷がついていても、タイヤが安物でも、ブレーキとハンドルがしっかりしていれば何とか運転できる、生きていける。
ハンドル操作やブレーキ操作は確かに、経験的に身につけるもので、経験とともにより上手になるわけだ。しかし、はじめからうまく機能しなければ、それを操るには人一倍苦労がいるし、どんなにがんばっていても時々事故を起こすだろう。それは、避難することではなく、その車を運転するしかない人を、手助けしたり応援してあげるべきだ。なぜなら、その人たちが、それでもそこそこの運転をしてくれないと、ほかの人も事故に巻き込まれる可能性がある。その人を「このへたくそ、馬鹿!」とののしったところでどうにもならないのだから。
人体と車とかけて、話を進めてみたが、何となくわかっていただけただろうか。
人は生まれたときに、その人固有の性能を授かって生まれてくる。そして、それから逃れることはできず、その操縦を身につけてくる。あまりコントロールがきかない乗り物に乗った人でも、道が平坦なうちはまだ、大丈夫だろう。交通量が増えたり、道が複雑になると、操縦しきれなくなって当然なのだ。「ある年齢まで、何も問題がなかった、それなのに、何でこんなことになるのか。甘えているからだ、自立心が足りないからだ」さんざん聞かされてつらい思いをした人も多いだろう。
みな理解してほしい。人はみな違うのだと。自分にできることが人にもできるわけではないのだということを。それさえわかっていれば、卑屈になることもないし、傲慢になることもない。きっと協力して生きていけるはずだ。

