2006年12月09日

考えない訓練(1)−考えないことの難しさ

adac7812.jpg我々は子供の頃から、考えることを絶えず教え込まれて生きてくる。そもそも勉強は考える訓練なので、それはそれでよい。しかし、その影響で、生活すべての中において、考えること、考えて答えを見つけることが何よりも大切なことだという盲目的な信念が一般化している。「よく考えなさい」「胸に手を当てて考えろ」「知恵を絞れ」などど、耳にたこができるくらい言われてきただろう。「あいつは何も考えていない」というのは相手を悪く言うときの言葉だ。多くの場合、より冷静に、よりよく考えた方がよいことはたくさんある。考えることが悪いことだと言っているのではない。
考えることに重きを置きすぎて、「考えない力」をおろそかにしていることが問題なのだ。

それはどういうことなのか、ピント来ないかもしれないが、場面をスポーツにうつしてみるとわかりやすい。特に、正念場とか窮地に立たされたときだ。
「何も考えるな。思い切っていけ」
選手は、雑念を振り払い、目の前のことに全神経を集中する。「何をなすべきかは分かっている。もはやここまで来て、あれこれ考えて役に立つはずがない。自分の力を、これまでの努力で身につけたものを信じて、ただやる抜くのみ!」そういう感じだろう。
この場合、目標ははっきりしているが、考えない力が試される時だ。
また、仕事などで行き詰まったとき。あれこれ考えすぎて、追い詰められている時、同僚や先輩が「あまり難しく考えすぎるな、とにかく、今やるべきことをやっていればいいんだよ」とかいうセリフも実際や、ドラマなどで耳にしたことがあるだろう。

人は、ある局面では、「考えない方がいい」と言うことは知っている。問題は、「考えないことは、考えることより簡単なこと」だと錯覚していることだ。先に書いたように、我々は、考える努力を絶えず訓練されてくる。いわゆる「考え無し」の人とは、本来考えなければいけないことを考えていない人をいう。本当に大事なことは、「役には立たないのに考えたくなるような場面、考えてもしょうがないのに考えを止められない場面で、考えを止める力」なのである。
「考えないこと」は「考えること」より簡単なことだという錯覚が、その訓練を怠らせるのである。似たようなことは、「緊張」と「弛緩」、「力を入れること」と「力を抜くこと」の関係である。
「懇親の力を込めろ」と言われれば、即座に思いっきり手を握りしめたり、体に力を入れたりするだろう。それは練習していなくても本能的にできる。しかし、逆に「思いっきり力を抜け、リラックスしろ」と言われても今ひとつそれができているのかどうか曖昧だ。力を入れることは器械で測定できるし、ボールがどれだけ飛んだかとか数値でわかりやすい。しかし、力の抜け具合は主観的なものなので、本人が抜きましたといえば、はいそうですかとなって、数値で表しにくい。
「考えろ」というのも「何を考えたか」という答えとして表現できるが、「考えるな」というのは出来ているのかどうか分からない。
つまり「力を抜くことの方が、力を入れることより難しい」ように「考えないことは、考えることより難しいのだ」、少なくとも意識的にする場合は。

考えない訓練とはどうすることなのか、それについて考えてみよう。

stake43 at 18:18│clip!考えない訓練