2006年12月10日
考えない訓練(2)−修行の効用−
リラックス、リラクセーションなどなど、メンタルヘルスがファッションのように扱われるようになって久しい。街の中には、「癒し」をうたうサロンが次々にできていく。現代人が如何に身も心も疲れているかという証拠だろう。力を入れることは小さいときから自然に訓練されてきたが、力の抜き方が分からないのだ。今は、お金をはらって、誰かにもみほぐしてもらったり、○○セラピーを受けて、リラックスを手伝ってもらうのが、普通になっている。自分でやることとしては、ヨガ、気功、自律訓練法などがある。
結果として、何とかなれば良いのだが、使い方を間違えると、頑張っている割にはよい結果が生まれない。間違った使い方とは「この方法でリラックスしよう」と「考えてしまう」ことである。
昔から、「修行」とか「行」とか呼ばれる行為がある。滝にうたれたり、座禅を組んだり、単調な動作を延々と何ヶ月何年と繰り返す行為のことだ。これは何をしているのだろうか。単調であるだけでも「何でこんな事しなくてはならないのか」と思うだろう。ましてや、その行為に「苦痛」が伴えば、すぐに「こんなことして何になる」と言いたくなり、やめてしまうだろう。修行とは、そういった「通常ではとても続けられないような事を延々と続ける訓練」なのである。「これをしたら〜になれる」「これを続ければ〜が得られる」などという小賢しい考えは、その単調さと苦痛の前には簡単に消し飛んでしまうわけだ。
それでも、あきらめずにそれを続けたらどうなるか・・・(私は修行を積んだわけではないが、日々が「行」であると思って生きているので、きっとそうだろうなと思う根拠で話を続けます)。そのうちに、何も考えなくなる。続けることだけが目標となり、理由はどうでもよくなる。そのうち、目標という意識もなくなり、ただ続ける、行為する自分になる。時々、「考え」が頭をよぎるが、それも軽く流して、こだわらないようになる。時に強く「考え」が襲ってきて(疲れていたり、体調が悪いと)、少し揺らぐが、それでも中心がしっかりしてくると、「考える方」ではなく「考えない方」にバランスが戻せるようになる。修行とはそういった心の訓練なのだと思うのだ。確かにやっていることは体をつかっているのだが、心の訓練をしているわけだ。決して、神に近づくことや超能力を身につけるためではない、「普通に生きる」ための訓練なのだと思う。「普通に生きる」ということは、想像以上に難しいことで、時として訓練が必要になるくらい、難しいのだと思う。
「何となく生きる」のと「普通に生きる」というのは全く違う。何となく生きて、何となく問題がないのは、何か妨げる出来事に遭遇すれば、はかなくバランスを崩すだろう。普通に生きるというのは、いついかなる時も自分を見失わず、普通に生きるということだ。バランスと保つためには普通が中心になるのであり、良い状態を基準にしてはいけないのだ。良い状態を維持しようとすれば、バランスが保てなくなるのは明らかだろう。それに良い状態というのは、「自分の考え通り」に事が進んでいる状態をさすのだから。普通に生きるというのは、「自分の思う通りではないが、何とかなっている」くらいの状態なのだ。
それと、もう一つ大事なことがある。「修行」のように、毎日何も変わらぬ行為を繰り返すと、些細な変化に気づくようになり、些細なことに喜びを感じられるようになるということだ。何かを成し遂げようという思いで行動していれば、目標と関係ないことは頭に浮かばないし、一見関係ないものに興味は向かわないだろう。しかし、無目的に、あるいは純粋な気持ちで同じ事を繰り返すと、季節の移り変わり、道の傍らにある自然の変化が発見されるかも知れない。また、ただ天気がよいとか、寒くないということに、ありがたさを実感できるかもしれない。自分がこうして生きていること自体がありがたいことのように思えてくるかも知れない。
そのように、「修行」とは余分なことを考えない訓練であり、同時に、小さな変化を感じ取り、小さなことに感動を覚えることができる訓練なのだと思う。
これは自律訓練で目標とされる「受動的集中」「変性意識状態」ということにもつながるので、次にそれについて説明する。

