2006年12月17日
考えない訓練(3)−再度、考えないことの大切さについて−
考えないための練習方法、対処法に話を移す前に、しつこいようだが、なぜ考えない訓練が必要なのか、もう一度強調したい。しつこい性格なので・・・冷静に振り返ってみれば、調子がよいときは考えることは少なく、日々するべき事を淡々とこなしているだけだ。しかし、ひとたび問題が起こるとあれこれ考えをめぐらせ始める。考えて考えて、何か答えを見つけて何とかなって、のど元を過ぎれば、また普通の生活にもどっていく。生きている間、その繰り返しである。
考えた末に解決ができる問題であればそれでいい。ただ、そう簡単に答えが出ないとか、初めての体験であるとか、苦手な出来事であったとき、事態はより複雑になる。
そこで、誰かに相談して指示を仰いだり、開き直って一つの方針を決めたりして行動に移し、その結果を受け止めていける場合は苦労の果てに乗り越えていけるし、それが一つの経験となり自分の成長につながる。
このとき、何が起こっているかと言えば、「人の意見に従う」、「開き直って一つの道を選ぶ」という形で「考えることを減らしている」わけだ。考えることを減らせば行動に移りやすくなる。
行動に移れない人は、「相談できる人がいないか意見に従えるほど信用できる人がいない」、あるいは「信用できないとか相談できないとか内面的弱点がある」、「結果を恐れるとか、もっと良い方法がないかと迷うとか心を一つにまとめる事が苦手である」などそれぞれの事情があるわけだ。
問題は、行動に移すことが苦手であることではなく、その結果として、頭の中でいろいろな想像が限りなくふくらんでいくことなのだ。行動に移すためには考えることを減らすことだとすれば、想像がふくらむことで考えることが増えてますます行動できなくなってしまうわけだ。解決とは一つの行動を選択することなので、そうなれば解決にはいたることはない。
さらにやっかいなことは、現実と想像の区別がつかなくなることだ。その区別は、冷静なときでも難しい。例えば、何か苦手なタイプの人に出会うとする。自分の心の中には、いろいろな想像がふくらむ。「怒っているのか、文句が言いたいのか・・」それはすべて想像なので、冷静で客観的な立場をとれるなら、普通に挨拶して、何か用事でしょうかと聞けばよい。しかし、それができないと「きっと〜に違いない」と思いこみ、それがいつの間にか現実となり、こっちも相手にけんか口調で突っかかるとか、逃げ出すことになりかねない。
ましてや、悩みすぎたり、睡眠不足だったりして脳が疲れていると、冷静で客観的な視点を維持することは困難になり、想像がふくらみはじめる。冷静で客観的であるというのか、一歩引いて全体を見渡せるということだ。広い視野をもち、思考が偏らないようにすることである。疲れていると、それができないので、ある偏ったことだけがひどく気になるようになる。
結局のところ、我々の思考は脳の働きが大いに関係しているので、脳が正常に機能してくれないと、よい考えはでてこない。疲労した頭で、冷静さを欠いた頭でものを考えても、よい考えやよい解決法が浮かんでくるわけはないのだ。しかも、浮かんできた想像は、容易に「現実」であると錯覚されてしまう。そして、間違った錯覚の「現実」認知に基づいて、行動をしようとすれば良い結果になるわけがない。最終的には、「八方ふさがりでどうしようもない」「自分はダメな人間なんだ」「生きている価値がない、生まれてくるのではなかった」という自虐スパイラルに陥るか、「自分を追い詰める周りが悪いのだ」「周りはすべて敵だ」という攻撃的スパイラルに、あるいはその両方に陥ってしまう。
繰り返しいうが、問題を解決するというのは、「考えることを減らすこと」最終的には「一つの考えに絞り込むこと」なのである。調子がよいときは、考えなしに、たまたまそれができているので、それは簡単なことだと錯覚しているだけで、考えを減らすことはとても難しいことなのだ。
そこで、考えを減らす訓練が必要になるのだが、まさか、滝にうたれたり、寺にこもって修行するわけにもいかないので、現代人の為の行が必要になる。それが「自律訓練法」をはじめ、具体的な方法について考えてみる。

