2007年03月22日
考えない訓練(4)−なにを訓練するのか
自律訓練法、呼吸法、その他、さまざまな方法は、その技術的な面が強調されるが、実はもっと本質的な要素は、意識の集中にある。人は一度にいろいろなことをしているような気がするが、しっかり理解できるのは、(その瞬間だけとってみれば)一つだけ、一点だけなのである。同時に二つの事は処理できない。それは何かを行うには意識の集中が必要だからだ。二つの事に意識が行ったら、それは集中ではないわけで、やはり、その瞬間に集中できるのは一点なのだ。聖徳太子は一度に複数の人間の話を理解できたと言われるが、それだって、少しずつ一人の話を1秒聞いて、次の人を1秒聞いて・・・また元に戻ってという具合に、スキャンしながら複数の話を聞きながら、断片的な話を順番や前後関係を間違えずに組み立てることができたってことだろう。それはコンピュータのような切り替えの速さと冷静さがないととても無理なので、本当ならものすごく特殊な脳味噌、ものすごい集中力をもっていたってことだろう。何が言いたいかというと、聖徳太子が同時に複数の話を聞けたということではなく、聖徳太子だって一度に集中できるのは一点だけだということが言いたいのだ。
聖徳太子の反対の脳味噌として、AD/HDという問題がある。集中力が持続できない脳の性質を持った人のことだ。あるいは集中するために、集中力を維持するために、強い刺激を必要とする脳の性質をさす。そういう人は、何かをやりだすのに一苦労だし、いざやりだすと、すぐに他のことに意識をとられてしまうので、あれもこれもやろうとして結局何もできないという状態に陥る。何かしていも、他に刺激があるとそっちに引っ張られて、もともとやっていたことを忘れてしまう。結局、ミスや忘れ物が多かったり、物事を最後までやり遂げられなくて困るか、非難されることになる。あるいは、逆に自分の興味のあることに過度に集中したり、危険な出来事のように集中を引き出される状況を無意識に選択してしまって危険な人生になる。
普段何気なく過ごしているが、実は人間にとって集中力の維持というのがものすごく大切だということだ。興味のあること、刺激の強いことに集中するのは簡単だ。たとえば、好きな映画や漫画なら時がたつのを忘れて最後まで見てしまう。あるいは悲惨な事件、大規模な事件が起きると、多くの人が今やっていることを忘れて、テレビに釘付けになる光景を見たことがあるだろう。
難しいのは、退屈な日常に対して、意識を集中することだ。興味がなくてもしなくてはいけないことがある。やりたくないけどやらなくてはいけないことがある。考えただけで気が滅入るとか、おっくうになることがある。それでも生きていくためには、一定の集中力を発揮しなくてはいけない。適度に集中して、気持ちを上手に切り替えて、疲れすぎないようにして、細く長く集中力を維持する能力は、生きていくためには非常に重要だ。その力が成長過程で適度に発達してくるかどうかは、元々の脳の性質プラス、日常の訓練の積み重ねによる。
誰もそんなことは意識することはなく、ほとんどの人は何となく生きているし、もっと別のことが大事だとおもって訓練している。例えば学力とか何かの才能を伸ばすこととか、結果が分かりやすいことにエネルギーを費やしていることだろう。そして、それがうまくいったとか行かなかったとか、行かないと、努力が足りないとか、やる気がないとか何の根拠もないバッシングを受けたりする。
集中力を維持する訓練は、思うようにならないことに対して、あきらめることなく、成果があってもなくても、真面目に取り組み続けることによってしか育たない。あまりにも自分の能力とかけ離れたことは、取り組みようがないので訓練にならない。理想的なのは、自分の能力をほんの少し超えることで、自分がそれなりに興味を持てること、しかし、なかなか成果が現れないことに長い年月取り組むことだ。
集中力をコントロールできるようになれば、落ち着いて行動できるようになる。そうすれば、判断を誤ることがへるし、人生があわただしくなくなる。思いつきや衝動的な行動も減るだろう。ただし、何かすごいことが起こるとか、何かが得られるということではない。平和に生きられる可能性が広がるということだけ、あるいは自分本来の能力にそぐう生き方ができるというだけだ。
自分探しとかいって、ありのままの自分を受け入れると言いながら、人は何かを得ようとして必死だ。ありのままの自分でいいなら、何もない退屈な日常に、ささやかな喜びを見いだしながら、それなりに生きていける。ありのままで良いと言いながら、ありのままでいられないから苦しいのだ。
人は常に何かを考えているものだ、今の自分の状態と社会との関わりが、それなりにかみ合っている時は何も問題を感じないだろうが、それがずれると、何かしら違和感を感じ、ひどくなると病気につながる。その時、頭に浮かぶのは、どうして、なぜ、どうやれば・・などなど、心が迷う内容、集中力をそぐ内容ばかりだ。
困ったときこそ何も考えてはいけない。何も考えず、今日一日、今このときを過ごすことだけに意識を集中することだ。リラクゼーション訓練、自律訓練は、何でもない状態に耐える力を身につける、何でもないことに集中力を向けられる訓練をすることであり、何かすごいことを起こすことが目的ではない。訓練をするのなら、無心になる訓練、今この瞬間の自分の身体感覚に集中する訓練だと思ってほしい。それで何か変化を起こそうと、余計なことを考えたら台無しになってします。
状態をよくしたいなら、よくしたいと考えないことだ。状態をよくしたいのなら、今の悪さから逃れようとせず、冷静に今の状態を評価し、必要なら薬を利用し、できるだけ、今のままでいること、余分なことをせず、今すべき日常のことだけに意識を集中することだ。
非常に抽象的で、わかりにくいと思うが、これが最も本質的な課題なのだと思う。これが如何に難しいかというと、そういうことを実践しているのは、おそらく出家して寺で修行をしているお坊さんの一部だけだからだ。われわれはそんなことはできない。でも何もできないわけじゃない。一日にほんの数分でもいいから、そういう気持ちで過ごす訓練をしてみよう。結果をもとめず、ただそれだけを続けてみよう。そんなことをして何か良いことがあるの、どうなるっていうの?という気持ちは、横に置いておこう。本当に大切なことは、自分が予想できるような形では起こらない。本当に大事なことは、きっと自分の知らないところからやってくるのだから。

