2007年06月05日
自分という乗り物
目の前に車がある。見た目はきれいだ、傷もついていない。タイヤも大丈夫。どこからどうみても、何の問題もない。しかし、いざ乗ってみたら、ブレーキの調節は難しい、ハンドル操作もとても不安定だった。それは乗ってみないとわからないし、外から見ている人には、何がどう難しいかわからない。ひょっとすると、こんないい車を運転できないおまえは、へたくそだ、だめなやつだと思われるかもしれない。その難しさは、一度乗ってみなければ、乗って操縦してみなければ決してわからない。
運転が難しいのに、周りからへたくそだといわれたら、当人も、「あー自分は才能がない、だめなやつだ」と思ってしまうかもしれない。その車以外運転したことがないなら、きっとそう思うだろう。
車は、いざとなれば、買い換えればいい。あるいは、そんな車を売りつけたやつをののしって、新車を持ってこいということもできる。
これが人間だったらどうなるのか。人間機械論ではないが、人間にとって、その生物学的性能は、当人の責任ではなくはじめから与えられたものだ。それを与えられ、そこに心が乗っかり、そういうものだと思って体を運転しながら生きていく。しかも、車と違って、どんなに運転しづらくても買い換えることも、乗り換えることもできない。さらにやっかいなことは、運転しづらさを誰にも体験してもらえない。当人しか決してわからないことなのだ。
外から見たら、どこも悪いようには見えない。全く普通に見える。なのに、何で人と同じようにできないのか、何でそんな無茶なことばかりするのか。ちゃんとやろうという意志がない、わがままだ、おまえがおかしい・・・そんな台詞を聞かされ続けている人はたくさんいる。言っている方は、「苦労は誰にでもある、みながんばって生きているんだ」と自分の体からの経験だけでものを言う。
繰り返しいうが、車と違って、人体の乗り心地は、当人しかわからない。誰も変わって操縦を体験することはできないのだ。
何となくわかってもらえただろうか。人は、唯一無二の自分という体に乗っかって、決して降りたり、乗り換えたりできないプロセスを生きていくしかないのだ。だから、人のことをうかつにいうもんじゃない。どんなに乗り心地が悪いかわからないのだから。見かけがどんなに普通に見えても、ブレーキ操作やハンドル操作がどんなに難しいか、その人しかわからないのだから。
自分が何とかうまく自分を乗りこなしている人は、できない人を批判するのではなく、なかなか性能のよい体をくれた自然界に感謝するべきである。それは誰かが何かを努力知った結果ではなく、いただけたのだから。まして、自分の努力などどこにも関与していないのだから。
人間にとって、ブレーキ操作やハンドル操作に当たるのは、感情や気分のコントロールということを意味する。安全な走行、安全な人生を保証する、もっとも重要な要素だ。ガラスが割れていても、ボディに傷がついていても、タイヤが安物でも、ブレーキとハンドルがしっかりしていれば何とか運転できる、生きていける。
ハンドル操作やブレーキ操作は確かに、経験的に身につけるもので、経験とともにより上手になるわけだ。しかし、はじめからうまく機能しなければ、それを操るには人一倍苦労がいるし、どんなにがんばっていても時々事故を起こすだろう。それは、避難することではなく、その車を運転するしかない人を、手助けしたり応援してあげるべきだ。なぜなら、その人たちが、それでもそこそこの運転をしてくれないと、ほかの人も事故に巻き込まれる可能性がある。その人を「このへたくそ、馬鹿!」とののしったところでどうにもならないのだから。
人体と車とかけて、話を進めてみたが、何となくわかっていただけただろうか。
人は生まれたときに、その人固有の性能を授かって生まれてくる。そして、それから逃れることはできず、その操縦を身につけてくる。あまりコントロールがきかない乗り物に乗った人でも、道が平坦なうちはまだ、大丈夫だろう。交通量が増えたり、道が複雑になると、操縦しきれなくなって当然なのだ。「ある年齢まで、何も問題がなかった、それなのに、何でこんなことになるのか。甘えているからだ、自立心が足りないからだ」さんざん聞かされてつらい思いをした人も多いだろう。
みな理解してほしい。人はみな違うのだと。自分にできることが人にもできるわけではないのだということを。それさえわかっていれば、卑屈になることもないし、傲慢になることもない。きっと協力して生きていけるはずだ。

