リラクゼーション

2007年05月07日

リラクゼーション(3)−リラックスを阻害する文化

kojihanazero.jpgリラクゼーションの本質は、何もしないことであることは分かっていただけただろうか。仏の教えの中核「執着を捨てる」ということに通じる。恒常的に何もかもを捨てるのは難しいだろうが、その時、その瞬間に、できるだけその状態に近づければ十分だ。

簡単なようでとても難しいのは、我々の生活が真逆のことで埋め尽くされているからだ。常に何かを求め、考え、努力し、得られないことに悩み、嘆き、怒り、得られた人をねたみ、うらやみ、うまくいかない自分をのろい、悲しむ・・・。そして、その状況を変えるためには、より多くの努力をすべきであると無条件に信じている。
常に何かをしていないと落ち着かないとか不安になる。あるいは、何もしていないことは無駄である。ぼーっとしているのはさぼっているように思われる。

ここで重要なのは、人間の考え方が変わったとか、人が欲にまみれているからとかいうことではないことだ。人の生き方の問題であるのなら、この状況を指摘して、「気をつけましょうね。少しゆとりを持ちましょうね」とか言葉をかけてあげればいい。言われた人は「あーそういう言われてみればそうだなー、これから気をつけよう」と気づいて生き方が変わる・・・はずだ。しかし、そうはならない、なるはずがない。そんな簡単な話ではない。

環境・資源問題と同じだ。「このままでは環境破壊が進みます。温暖化します。エネルギーを節約しましょう。ものを大切にして、ごみを減らしましょう。」とか言われて、「そうだなー、車はやめて、公共交通機関を使おう。」とか「ごみを減らすために過剰包装の物は買わないようにしよう」とかできるか?できないだろう。それは、個々人の意志が弱いからか?そうじゃないだろう。
社会文化がすっかり、車用に、過剰包装するようにできてしまっているのだ。車が普通に買える値段で売られ、ガソリンの値段も変動はあっても買えないほどの値段でもなく、道は車用に舗装されて、縦横無尽にシステマティックに張り巡らされ、行く先々では巨大な駐車場が用意され、そこに行けば何でも買えるショッピングモールができていれば、車に乗りましょうと言っているようなものだろう。そして、その反動で、近所にあった小売店はどんどんつぶれてしまう。
小売店なら過剰包装せずに家から持ってきた入れ物に入れて売れた物が、遠くまで買いに行くから過剰包装になる。それに同調して、きれいさ、清潔さ、デザイン性が重視されるようになると、ごみの元はどんどん増える一方だ。
そういう社会環境の中で、資源をどうのこうの言ったって、どうにもなるはずがない。

心のゆとりがないのも、それと同じように社会構造の問題なのだ。街は整備されて隙間はどんどん新しい建物で埋め尽くされる。物が増えて生活の中もやることだらけ、覚えることだらけだ。次々に新製品が生み出されるたびに、新しいことを覚えないといけない。単調さは否定され、複雑なことをスマートにできることが良いことのように感じられる。
交通手段の進歩?は流通、移動の時間を短縮し、しかも正確にできるようにした。さらにそれを加速するように、インターネット社会がほぼ完成し、携帯電話の普及もものすごい。それによってコミュニケーションにも余裕がなくなった。今思ったことを今伝え、今すぐ返事がほしいという環境になった。人々はますます待てなくなる。待たされると、怒り出すか、妄想が始まるわけだ。

そしてどうなったか?いつも頭の中は考え事だらけだ。便利になれば暇ができて、ゆとりのある生活になるはずじゃなかったのか?しかし現実は、隙間がどんどん他の物で埋められていっただけだ。暇と暇なままにしておいてくれない。隙間の取り合いがおこるわけだ。そこにどんどん新しい価値が入り込み、それを買うためにさらにお金が必要になる。そして、ますます忙しくなるし、心はいつも貧しく、満たされない。常に何かをしなくてはいけない気持ちに駆り立てられる。
街を見渡してみよ。意味のない空間があるだろうか?すべて「名前のある物」で埋め尽くされているだろう。名前のない空間がどれくらい残っているか?この空間が心のゆとりなのだ。田舎にいく、山の中にいく・・そのとき、どうして心が少しだけゆとりを感じるのか。それは意味のない空間がそこにあるからだ。意味のない空間にいれば、何も考えずにすむだろう。しかし、そこに時計があって、次のスケジュールがあれば、とたんに心は次の予定に飛んでいってしまうので台無しだ。

結局、今の社会文化の中で生きていれば、何もしないことはとても難しいことなのだということを自覚してほしい。環境問題と同じで、そうせざるを得ない状況が知らぬまにできてしまっているのだ。その中で、何とかしようとするのは、自覚的に工夫するしかない。無意識にそれができている人もいるのも事実だ。世のおかしな流れになびかずに、自分のペースを維持できたり、上手に切り替えて、自分の世界を維持できたり、上手にバランスがとれている人だ。
しかし、多くの人は、世の中のシステムに無条件に組み込まれて、知らず知らずのうちにあわただしい、心に余裕のない生き方になっていく。それでも、昔の隙間だらけの、時間の流れが速くない、交通手段もゆっくりで、インターネットもない時代を知っている人間はまだましだ。その異常さを自覚できるからだ。 しかし、今の文化の中で生まれ育った人間は、それが当たり前のことであり、そうではない感覚は想像もできないことになる。

リラックスとはゆとりと言いかえてもよい。ゆとりとは心の余裕である。それは「結論を急がない、待つことができる大人の力」である。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざ通り、やるだけやって、結果を待つ、そしてどのような結果になろうとも、それは結果をして受け止める。それが大人の力であり、リラクゼーションの本質である。
それは待つ力を鍛えることによって身につくわけだ。まだ情報も少なく、何をするにも時間がかかる時代に、そういう環境の中で試行錯誤を繰り返しながら、その力を徐々に身につけていく。それが人として成長することだったのだ。
しかし今はどうだ、「あふれる情報」、「今やったことの結果を今求める、時間の余裕のない文化」、「正確さを求め失敗を恐れ、傷つくことを恐れる文化」。そういった環境の中で、どうやって待つ力を身につけるのか、ゆとりをもつ力を身につけるのか・・・。

結局、時代は大間違いを犯して、リラクセーションをも一つの情報、一つの技術にしてしまった。努力してリラクゼーション法を身につけるというわけのわからない状況ができてしまった。「何もしない」はずのリラクゼーションが、いつの間にか、「努力して成し遂げること」のようになってしまった。この末期的状況を理解し、そのような状況下でも何とかリラックスできるようになるためにはどうすればよいのかを考えてみよう。

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リラクゼーション(3)−リラックスを阻害する文化

kojihanazero.jpgリラクゼーションの本質は、何もしないことであることは分かっていただけただろうか。仏の教えの中核「執着を捨てる」ということに通じる。恒常的に何もかもを捨てるのは難しいだろうが、その時、その瞬間に、できるだけその状態に近づければ十分だ。

簡単なようでとても難しいのは、我々の生活が真逆のことで埋め尽くされているからだ。常に何かを求め、考え、努力し、得られないことに悩み、嘆き、怒り、得られた人をねたみ、うらやみ、うまくいかない自分をのろい、悲しむ・・・。そして、その状況を変えるためには、より多くの努力をすべきであると無条件に信じている。
常に何かをしていないと落ち着かないとか不安になる。あるいは、何もしていないことは無駄である。ぼーっとしているのはさぼっているように思われる。

ここで重要なのは、人間の考え方が変わったとか、人が欲にまみれているからとかいうことではないことだ。人の生き方の問題であるのなら、この状況を指摘して、「気をつけましょうね。少しゆとりを持ちましょうね」とか言葉をかけてあげればいい。言われた人は「あーそういう言われてみればそうだなー、これから気をつけよう」と気づいて生き方が変わる・・・はずだ。しかし、そうはならない、なるはずがない。そんな簡単な話ではない。

環境・資源問題と同じだ。「このままでは環境破壊が進みます。温暖化します。エネルギーを節約しましょう。ものを大切にして、ごみを減らしましょう。」とか言われて、「そうだなー、車はやめて、公共交通機関を使おう。」とか「ごみを減らすために過剰包装の物は買わないようにしよう」とかできるか?できないだろう。それは、個々人の意志が弱いからか?そうじゃないだろう。
社会文化がすっかり、車用に、過剰包装するようにできてしまっているのだ。車が普通に買える値段で売られ、ガソリンの値段も変動はあっても買えないほどの値段でもなく、道は車用に舗装されて、縦横無尽にシステマティックに張り巡らされ、行く先々では巨大な駐車場が用意され、そこに行けば何でも買えるショッピングモールができていれば、車に乗りましょうと言っているようなものだろう。そして、その反動で、近所にあった小売店はどんどんつぶれてしまう。
小売店なら過剰包装せずに家から持ってきた入れ物に入れて売れた物が、遠くまで買いに行くから過剰包装になる。それに同調して、きれいさ、清潔さ、デザイン性が重視されるようになると、ごみの元はどんどん増える一方だ。
そういう社会環境の中で、資源をどうのこうの言ったって、どうにもなるはずがない。

心のゆとりがないのも、それと同じように社会構造の問題なのだ。街は整備されて隙間はどんどん新しい建物で埋め尽くされる。物が増えて生活の中もやることだらけ、覚えることだらけだ。次々に新製品が生み出されるたびに、新しいことを覚えないといけない。単調さは否定され、複雑なことをスマートにできることが良いことのように感じられる。
交通手段の進歩?は流通、移動の時間を短縮し、しかも正確にできるようにした。さらにそれを加速するように、インターネット社会がほぼ完成し、携帯電話の普及もものすごい。それによってコミュニケーションにも余裕がなくなった。今思ったことを今伝え、今すぐ返事がほしいという環境になった。人々はますます待てなくなる。待たされると、怒り出すか、妄想が始まるわけだ。

そしてどうなったか?いつも頭の中は考え事だらけだ。便利になれば暇ができて、ゆとりのある生活になるはずじゃなかったのか?しかし現実は、隙間がどんどん他の物で埋められていっただけだ。暇と暇なままにしておいてくれない。隙間の取り合いがおこるわけだ。そこにどんどん新しい価値が入り込み、それを買うためにさらにお金が必要になる。そして、ますます忙しくなるし、心はいつも貧しく、満たされない。常に何かをしなくてはいけない気持ちに駆り立てられる。
街を見渡してみよ。意味のない空間があるだろうか?すべて「名前のある物」で埋め尽くされているだろう。名前のない空間がどれくらい残っているか?この空間が心のゆとりなのだ。田舎にいく、山の中にいく・・そのとき、どうして心が少しだけゆとりを感じるのか。それは意味のない空間がそこにあるからだ。意味のない空間にいれば、何も考えずにすむだろう。しかし、そこに時計があって、次のスケジュールがあれば、とたんに心は次の予定に飛んでいってしまうので台無しだ。

結局、今の社会文化の中で生きていれば、何もしないことはとても難しいことなのだということを自覚してほしい。環境問題と同じで、そうせざるを得ない状況が知らぬまにできてしまっているのだ。その中で、何とかしようとするのは、自覚的に工夫するしかない。無意識にそれができている人もいるのも事実だ。世のおかしな流れになびかずに、自分のペースを維持できたり、上手に切り替えて、自分の世界を維持できたり、上手にバランスがとれている人だ。
しかし、多くの人は、世の中のシステムに無条件に組み込まれて、知らず知らずのうちにあわただしい、心に余裕のない生き方になっていく。それでも、昔の隙間だらけの、時間の流れが速くない、交通手段もゆっくりで、インターネットもない時代を知っている人間はまだましだ。その異常さを自覚できるからだ。 しかし、今の文化の中で生まれ育った人間は、それが当たり前のことであり、そうではない感覚は想像もできないことになる。

リラックスとはゆとりと言いかえてもよい。ゆとりとは心の余裕である。それは「結論を急がない、待つことができる大人の力」である。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざ通り、やるだけやって、結果を待つ、そしてどのような結果になろうとも、それは結果をして受け止める。それが大人の力であり、リラクゼーションの本質である。
それは待つ力を鍛えることによって身につくわけだ。まだ情報も少なく、何をするにも時間がかかる時代に、そういう環境の中で試行錯誤を繰り返しながら、その力を徐々に身につけていく。それが人として成長することだったのだ。
しかし今はどうだ、「あふれる情報」、「今やったことの結果を今求める、時間の余裕のない文化」、「正確さを求め失敗を恐れ、傷つくことを恐れる文化」。そういった環境の中で、どうやって待つ力を身につけるのか、ゆとりをもつ力を身につけるのか・・・。

結局、時代は大間違いを犯して、リラクセーションをも一つの情報、一つの技術にしてしまった。努力してリラクゼーション法を身につけるというわけのわからない状況ができてしまった。「何もしない」はずのリラクゼーションが、いつの間にか、「努力して成し遂げること」のようになってしまった。この末期的状況を理解し、そのような状況下でも何とかリラックスできるようになるためにはどうすればよいのかを考えてみよう。

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2007年05月04日

リラクゼーション(2)−リラックスする?

ponta2リラクゼーションとは何か、それが問題だ。癒しブームによって、いろいろな方法がメディアから垂れ流されている。慢性的に疲労して、休まることのない人々は、その情報に簡単に引っかかり、何かよい方法はないかと、どの方法が一番良いのかと探し求め続けるのだ。
「どうすればリラックスできるのか」その問いかけから、間違った方向に進み、「〜すればリラックスできます」となり、最悪なのは「頑張ってリラックス法を身につけましょう」となってしまう。
原点に戻り、冷静に考えてみよう。「リラックス」とは何か。リラックスの反対は「緊張(tension)」である。緊張とは何か、それは良い結果を導くため、あるいは悪い結果にならないための「心の身構え」と言えるだろう。言い換えれば「何かを成し遂げる」ために費やされる「心の張り」だ(ちょっとしつこいかな)。となれば、リラックスとは何か分かりますね。そう、「何も成し遂げようとしない」時の心の状態なのだ。
であれば、「リラックスをする」というのは言葉が矛盾しているわけで、「リラックスを身につける為に頑張る」などというのは逆効果となってしまう。
「リラックス」=「何もしないこと」。そんな簡単な、そんな馬鹿みたいなこと・・・とお思いだろうが、実はこれが如何に難しいかということだ。何もしないでいられる能力、これは現代社会においてはとても困難なことになってしまったのだ。それは「何もしない」=「無駄」、「努力」=「何かを成し遂げようとすること」が最も価値あることだという大錯覚が、社会文化の中に完璧に浸透してしまったからだ。これこそが、教育における最大の失敗だったのではないかと思う。

話はそれるが、学校教育はそれでよいと思う。「読み、書き、そろばん」と昔から言われたが、学校教育は人に必要なすべてを与える場ではなくて、社会的活動をするために必要な最低限の技術を訓練する場といえよう。つまり「何かを成し遂げる」こと「緊張と集中」を学ぶ場だということだ。
家庭あるいは生活の拠点は、安心できる場であることが望ましく、「何も成し遂げなくても大丈夫」「ゆっくりしていてもいい」という感覚を学ぶのだ。順序から言えば、まず、安心して生きる体験を十分にして、生きるための基礎固めをしてから、学校にあがって、「緊張と集中」のトレーニングを受けるのだ。訓練を受けた後、家に帰れば、ゆっくり休めて、心身ともにリセットして次の日を迎える。そういった、緊張と弛緩の繰り返しによって、心身のバランスの取り方を身につけていくのが理想的なのだ。
今こそ、緊張と集中を学ぶことが大切なだけ、何もしないことが同じように大切だという価値観を取り戻さないといけない。

話をもどす。理想論を言っていても、今現実がそうではないのだから、今の世界でどうすればよいのかを考えないといけない。何をしたらよいか、何をしてはいけないのかを考えないといけない。
我々の文化は何を失い、何がうまくいかなくなったのか。そこを整理し、リラクゼーションのために何をどう工夫すれば良いのかを次に説明する。

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リラクゼーション(2)−リラックスする?

ponta2リラクゼーションとは何か、それが問題だ。癒しブームによって、いろいろな方法がメディアから垂れ流されている。慢性的に疲労して、休まることのない人々は、その情報に簡単に引っかかり、何かよい方法はないかと、どの方法が一番良いのかと探し求め続けるのだ。
「どうすればリラックスできるのか」その問いかけから、間違った方向に進み、「〜すればリラックスできます」となり、最悪なのは「頑張ってリラックス法を身につけましょう」となってしまう。
原点に戻り、冷静に考えてみよう。「リラックス」とは何か。リラックスの反対は「緊張(tension)」である。緊張とは何か、それは良い結果を導くため、あるいは悪い結果にならないための「心の身構え」と言えるだろう。言い換えれば「何かを成し遂げる」ために費やされる「心の張り」だ(ちょっとしつこいかな)。となれば、リラックスとは何か分かりますね。そう、「何も成し遂げようとしない」時の心の状態なのだ。
であれば、「リラックスをする」というのは言葉が矛盾しているわけで、「リラックスを身につける為に頑張る」などというのは逆効果となってしまう。
「リラックス」=「何もしないこと」。そんな簡単な、そんな馬鹿みたいなこと・・・とお思いだろうが、実はこれが如何に難しいかということだ。何もしないでいられる能力、これは現代社会においてはとても困難なことになってしまったのだ。それは「何もしない」=「無駄」、「努力」=「何かを成し遂げようとすること」が最も価値あることだという大錯覚が、社会文化の中に完璧に浸透してしまったからだ。これこそが、教育における最大の失敗だったのではないかと思う。

話はそれるが、学校教育はそれでよいと思う。「読み、書き、そろばん」と昔から言われたが、学校教育は人に必要なすべてを与える場ではなくて、社会的活動をするために必要な最低限の技術を訓練する場といえよう。つまり「何かを成し遂げる」こと「緊張と集中」を学ぶ場だということだ。
家庭あるいは生活の拠点は、安心できる場であることが望ましく、「何も成し遂げなくても大丈夫」「ゆっくりしていてもいい」という感覚を学ぶのだ。順序から言えば、まず、安心して生きる体験を十分にして、生きるための基礎固めをしてから、学校にあがって、「緊張と集中」のトレーニングを受けるのだ。訓練を受けた後、家に帰れば、ゆっくり休めて、心身ともにリセットして次の日を迎える。そういった、緊張と弛緩の繰り返しによって、心身のバランスの取り方を身につけていくのが理想的なのだ。
今こそ、緊張と集中を学ぶことが大切なだけ、何もしないことが同じように大切だという価値観を取り戻さないといけない。

話をもどす。理想論を言っていても、今現実がそうではないのだから、今の世界でどうすればよいのかを考えないといけない。何をしたらよいか、何をしてはいけないのかを考えないといけない。
我々の文化は何を失い、何がうまくいかなくなったのか。そこを整理し、リラクゼーションのために何をどう工夫すれば良いのかを次に説明する。

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リラクゼーション(1)−癒しブームの背景

minmaro1しばらく前から癒やしブームが始まり、今のところその状況が続いている。癒やしがはやるのは、癒やしを求める人がおおいからだ。つまり、現代人はストレスフルである、簡単に言えば心が疲れている。
身体疲労がけでいえば、高度成長期の方がハードワークをしていたのではないだろうか。単純な肉体的疲労は、普通に身体を休めていれば回復する。問題は休んでいるのに回復しにくい疲れだ。
回復しやすい疲れと回復しにくい疲れがあるのは、多くの人が何となく経験しているのではないだろうか。例えば、何かの競技で全力を出したとする。しかも、結果は自分にとって納得できるものだったとしよう。そういう時は、嫌な疲れは感じず、むしろやるだけやったという満足感を伴う疲れだろう。そういう時には回復も早いものだ。しかし、納得できない結果に終わる、力を出し切れずに終わったとする。その時は、嫌な疲労感が残り、いつまでも嫌な感じが続くだろう。精神的な疲れも同じだ。試験で力を出し切り結果も良かったならば、ものすごく疲労したはずだが、回復は早いに違いない。
つまり、疲労感は単純に量的に比較できるものではないということだ。
高度成長期、明日を信じ、報われると信じられる努力によって感じる疲労は決して不快なものではない。それに、仕事が終われば満足感をもって、休息に入ることができて心身ともにリセットされやすいだろう。
しかし、今の世は、未来を信じることができず、正当な労働だとも感じられず、何かしら不平等感と先の見えなさにさいなまれながらの労働になる。納得も満足もしにくいので、切り替えもできず、仕事が終わっても仕事のことが頭から離れず、リセットできない。
「自分のやっていることが良いことだと感じられない」「自分の努力が明日につながると実感できない」「先が見えない」など、現代社会が抱える矛盾が、そのまま人々の心をむしばんでいる。みんなで良くしようという連帯感はなくなり、自分だけは生き残りたいという利己的、排他的な雰囲気が心をすさんだものにしてしまう。
それゆえ、今、人々は疲れている、慢性的に疲れている。どこかでホッとしたい、安心したいと思い続けている。その思いが「癒しブーム」のベースになっているのだろうと思う。

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リラクゼーション(1)−癒しブームの背景

minmaro1しばらく前から癒やしブームが始まり、今のところその状況が続いている。癒やしがはやるのは、癒やしを求める人がおおいからだ。つまり、現代人はストレスフルである、簡単に言えば心が疲れている。
身体疲労がけでいえば、高度成長期の方がハードワークをしていたのではないだろうか。単純な肉体的疲労は、普通に身体を休めていれば回復する。問題は休んでいるのに回復しにくい疲れだ。
回復しやすい疲れと回復しにくい疲れがあるのは、多くの人が何となく経験しているのではないだろうか。例えば、何かの競技で全力を出したとする。しかも、結果は自分にとって納得できるものだったとしよう。そういう時は、嫌な疲れは感じず、むしろやるだけやったという満足感を伴う疲れだろう。そういう時には回復も早いものだ。しかし、納得できない結果に終わる、力を出し切れずに終わったとする。その時は、嫌な疲労感が残り、いつまでも嫌な感じが続くだろう。精神的な疲れも同じだ。試験で力を出し切り結果も良かったならば、ものすごく疲労したはずだが、回復は早いに違いない。
つまり、疲労感は単純に量的に比較できるものではないということだ。
高度成長期、明日を信じ、報われると信じられる努力によって感じる疲労は決して不快なものではない。それに、仕事が終われば満足感をもって、休息に入ることができて心身ともにリセットされやすいだろう。
しかし、今の世は、未来を信じることができず、正当な労働だとも感じられず、何かしら不平等感と先の見えなさにさいなまれながらの労働になる。納得も満足もしにくいので、切り替えもできず、仕事が終わっても仕事のことが頭から離れず、リセットできない。
「自分のやっていることが良いことだと感じられない」「自分の努力が明日につながると実感できない」「先が見えない」など、現代社会が抱える矛盾が、そのまま人々の心をむしばんでいる。みんなで良くしようという連帯感はなくなり、自分だけは生き残りたいという利己的、排他的な雰囲気が心をすさんだものにしてしまう。
それゆえ、今、人々は疲れている、慢性的に疲れている。どこかでホッとしたい、安心したいと思い続けている。その思いが「癒しブーム」のベースになっているのだろうと思う。

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